思い返してみますと、
実に多くの方々のお世話になってまいりました。
やはり人間はひとりで生きていけるものではないと思います。
幼児期は遊ぶ相手もいなかったし、
幼稚園も追い出されてしまったので、
私の遊び相手はもっぱらネコちゃんたちでした。
ネコちゃん囲まれて暮らしていました。
気まぐれなヤツらでしたが、
友達のいなかった私にはいい暇つぶしになりました。
小学校に入ってからは、
まず本山さんに扱かれ(しごかれ)ました。👧
何ひとつ感謝はしていませんが、
暗い小学校時代のスタートを切ったという意味で、
忘れることのできない人です。
小学3年生の担任の宮本先生は、
一生懸命に私を立ち直らせようとしてくれましたが、
すべてが無駄に終わってしまいました。
本当にご苦労様でした。
小学5年生の久保智子先生は、
私が自分を取り戻すためにとても助けになった先生でした。
別に何をしてくれたわけではありませんでしたが、
相性がよかったのでしょう。
のろまなヤツが大嫌いという久保先生は、
勉強はできなくても、
すばしっこい私のことは標的にしませんでした。
戸塚一中で世話になった人は、
柔道部の高柳先輩以外に誰もいませんが、
高田中の小山内君のおかげで勉強が人並みに出来るようになりましたから、
そのまま不良になってしまったかもしれないことを考えてみれば、
生涯で最大の恩人かもしれません。
事実、
戸塚一中の同級生はすべてのヤツらが、
私が極道の道へ進むと信じて疑いませんでした。
そのまま暴走族になって極道になるのと、
都立戸山高校に行って進学するのとでは、
大きな違いがあったでしょう。🏫
人生の転機なんてどこに転がっているか分からないものです。
私にとって運が良かったことのひとつに、
意地悪な女性から痛めつけられなかったことが幸いだったと思います。
小学校時代の本山さんはぎゃぎゃあうるさかったですが、
悪い人ではなかったので、
心の傷にはなりませんでした。
中野明子さんの優しさと、
木村屋のパン屋のお姉さんの優しさと、
その他多くの優しいお姉さま方のおかげで、
今でもフェミニストなのかもしれません。
まあ、
いろんな人にお世話になって生きておりますが、
病気で困っている人を助けるのが今の私の仕事ですから、
助け合いは順番なのかもしれません。🩺
🎨🎨🎨
東京国立博物館の歌川広重の版画です。
「三保の松原」を描いています。
歌川広重<1797年生〜1858年10月12日没>は『東海道五十三次』の版画で有名です。