子供のころを思い出すと、嫌なこともたくさんあったはずなのに、いいことしか頭に浮かんできません。
過去を美化してしまうんですねえ。
最近のことは嫌だったことはそのまま覚えていますので、思い出すとときどき気分が悪くなります。
子供のころなんて貧乏で、学校でも怒られてばっかりで、いいことなんてあるはずはないのに、ちょっと楽しかった些細なことでも今から思うとすごくいい思い出になってしまうんですね。不思議なことです。
私の家の近所に木村屋というパン屋さんがありました。
このパン屋さんのご夫婦まだ新婚だったので子供がいませんでした。
それで私が遊びにいくととても可愛がってくれました。
パンを作らしてもらったり、お菓子を食べさしてもらったりで、木村屋へ行くのが楽しくて仕方ありませんでした。
しかしいいことは長くは続かないもので、パン屋さんの夫婦に子供ができました。
こうなってしまうと、自分の子供の方が可愛いに決まっていますから、以前ほど私と遊んでくれなくなってしまいました。
だんだんパンを作ることもさせてもらえなくなってしまいました。
だって、私が作ったパンは売り物にはなりませんからね。
そんな無駄になってしまうパンでも、それ以前には作らしてくれたのです。
その夫婦の子供が憎たらしいとは思いませんでしたが、急に以前ほど優しくなくなってしまった木村屋のおじさんとおばさんが少し嫌いになってしまいました。
悲しくて一人で泣いてたときもありました。
でも本当の子供とよその子供のどちらが可愛いかは、学校の先生からはバカといわれた私でも分かりました。
わかってはいても悲しかったのです。
やがてその子も3才ぐらいになると、今度は私と遊ぶようになりました。
かつてほどではありませんが、パン屋のおばさんは、また私に優しくしてくれました。
自分の子供の遊び相手だったからです。
何だっていいんです、理由なんか。
私に優しくしてくれる人はみんないい人ですし、私の好きな人です。
やがてパン屋さんに新しいお姉さんが就職しました。
中学を出たばかりでしたから、16才ぐらいだったはずです。
私がまだ10才ぐらいでしたから、ずいぶんお姉さんに見えました。
でも実に優しかった。パン屋のおばさんも優しかったけれど、このお姉さんの優しさは質の違う優しさでした。
白状いたしますと、わたしはこのお姉さんのほうの優しさにより惹かれるようになりました。
パンを買いにいくときも、わざわざお姉さんのいる日を選んで買いに行っていました。
こうやって私はだんだんませたガキになっていきました。
このお姉さんもやがてお嫁に行ってしまい、そのころには私は中学で暴れまわっておりました。
子供のころに優しい女性がまわりにたくさんいたのはとても運がよかったと思っています。
今の私がフェミニストなのはそのせいだと勝手に思っています。
私にとって女性とは2種類しかいません。好ましい女性か、ただのふつうの女性か。
そして、私にとって男性とは2種類しかいません。敵か、敵じゃないか。
つまり、私の中には、嫌いな女性と、好きな男性は存在しないのです。
これっておかしいでしょうかね。