私の父は山梨の田舎で生まれました。
甲府盆地の中央部で、夏は暑く、冬は寒い何もないところです。
小さいころから賢かったらしく、とくに書の才能があったようです。
中学生のときに書いた書が学校で展示され、たまたま立ち寄った天皇が父の書を見てたいそうお褒めの言葉があったそうです。
この書はいまだに実家の家宝となっており、私も見せてもらったことがありました。
スピード感のある厳しい筆使いで、何よりも全体のバランスが完璧でした。
このころの父の凛々しい姿が書を借りて写し出されているようでした。
私も書をやっていますが、父と比べればライオンと猫ぐらいの迫力の差があります。
ところが、父の父、つまり、祖父は父の才能を喜んではいませんでした。
百姓の子は百姓ができればよかったのです。
書がうまくたって野菜は育ちません。
父は勉強もできたようで、今でもありますが、甲府一高に進学しました。
しかしそれが祖父にはますます気に入らなかったようで、百姓をやらないなら出て行けといわれたそうです。
この分からず屋の祖父の罵倒に耐えながら大学受験をしました。
高等師範(今の筑波大学です)に合格し、東大に落ちてしまいました。
東大に落ちるなんてよくあることですが、父にとっては生涯のコンプレックスになってしまいました。
祖父は大学進学には大反対でしたので、父を勘当してしまいました。
百姓をやらないから勘当するなんて話聞いたことありますか。
父のほかに頭の悪い兄弟がたくさんいましたので、そいつらがやれば済むことでした。
ところがどうも話はそう簡単ではなかったようです。
祖父は離婚、再婚していましたので、父は後妻の子ではなかったかと思っています。
後妻は父が小さいときに死んでしまったようですが、先妻の子達が4人いたはずです。
父が追い出された理由がそのへんにあったかもしれません。
私が祖父に会ったのはたった2回です。
1回目に会ったときは、「おじいちゃん」と、可愛い孫が声をかけているのに、むすっとして黙っていました。
平家ガニみたいな顔をした、愛想のねえじじいだなと思いました。
2回目は祖父が死んだときでした。
「おじいちゃん」と呼びましたが、やはり返事はありませんでした。死んでからも愛想のないじいさんでした。
父は、一文無しで東京へ出てきて学生生活を始めました。
食べるものがなくて辛かったそうです。
大学を卒業して教員になって、下宿した家が、なんと母のうちでした。
そのころ父には縁談があり、時計店の娘さんとの話が進んでいました。
とてもお金持ちだったらしく、貧乏のドン底の父にとっては悪くない話でした。
それがなんと16歳の母と仲良くなって、縁談を断ってしまったのです。
あの母のどこがよかったかなあ、きっとよほど発育がよかったんだと思います。
大きな胸していましたから。
この16才の母が一生懸命父の面倒を見て、とうとう18才で結婚してしまいました。
26才の父と、18才の母です。
これから二人には嵐のような波乱万丈の人生が待ち受けておりました。