昨年、アン・セクストンの記事を書こうとしていたのですが

寄り道が多いうえに

日本語の文献が少なくて

すっかり頓挫しました。

 

シルヴィア・プラスの新訳本などに触れまして

思ったことは

作品そのものよりも

それが読まれた時代背景に興味があることに気づきました。

 

フェミニズムというコーティングがなければ

現在まで人権の課題を運び込めなかったのではと

考えました。

性別というのもひとつのアプローチ。

多方向から考えて、丁寧に体験に基づいて語り合い、

生きる時間の中で何にエネルギーを費やすかを

決めるプロセスが大事。

 

表現に長けていることだけではなく

そこを生きていたということが

伝わってきたのだろう。

 

歴史の中で

現象を描写したり、栄誉を称えたり、現実を刻み込む言葉がある。

それはそれで素晴らしい。

その一方で言葉の力を生かしながら

「私がこの命を生きた」と自分で証言していることが

読んだ人に勇気を与える。

そういうところなのか、私にとっての詩の味わい。

 

恐ろしい数の送受信が行われている世の中で

吟味はどこにあるのだろうか。

書物もネット環境に吸い込まれている。

本ということばは今後どうなるのか。

 

現在を知らない人たちが残した言葉を

ゆっくりと感じていたい。

なるほど、言葉にしてみれば

そう思ったわけで。

 

物質に囲まれ、価値に串刺しにされ

豊かさとは何かと問われたとしても

貧しさしか見当たらない。

 

かといって状況も説明できない。

 

それではまた。