鬼塚ちひろさんの「私とワルツを」を聴くと、胸の奥が静かにざわめく。

綺麗な言葉なのに、触れた瞬間に痛い。

そして、あの短い一説が刺さったまま抜けない。

 

「優しいものはとても怖いから・・・」

 

優しさは、救いにもなる。

でも救いの形を知らないまま育つと、優しさが「脅威」になる。

受け止めれば楽になるのに、身体が先にこわばる。

信じたいのに、信じる筋肉が育っていない。

私はこの曲を聞くたびに、そういう自分を思い出す。

 

優しい人ほど、誰にも傷がつかないようにって先回りする。

その結果、いちばん傷つく場所に残るのは、だいたい本人だ。

ひとりで踏ん張って、ひとりで耐えて、ひとりで回り続ける。

 

「一人で踊らないで」

 

この言葉が痛いほど分かる。

私はもう一人で踊るのを終わらせたい。

 

※念のため、私は暴力や事件を肯定しません。苦しみの話と、加害の是非は別です。

 

ここ数年、世の中で「宗教二世」の苦しさが語られてるようになった思う。

生まれた瞬間から、世界の見方が決まってしまうこと。

選ぶ前に正解が選ばれて、外れたら罪悪感が襲ってくること。

そして私は、こういう「価値観の檻」を他人事として見れない。

 

私は日本共産党二世として育った。

 

日本共産党の政策が弱い立場の人に向けて強い言葉を持っていることは今も認めている。

でも同時に私は思う。

理想が高いほど、現実に取り残される人もいる。

そして何より私はもう「誰かの正解」を生きていたくない。

 

ここで私の具体例を一つ

私は現在「株式投資」を行っている。東京電力【9501】の株も持っている。

だから電力・エネルギーの話って、ただの政策論じゃない。生活の一部だと思っている。

電気代。産業。雇用。災害時の強さ。全部繋がってる。

口先の理想だけじゃ回らない世界がある。

 

それともう一つ。これは私の個人的な感覚なんだけど・・・

私は天皇制を肯定する。

崇拝しろ、という話ではない。

政治の勝ち負けの外側にある「象徴」が、社会の呼吸を整える役割もあると思うから。

(意見が分かれるのは分かっている。だからこれは「私はこう感じる」とういう話です)

 

 

そして、今朝、母に言った。

 

「次の衆院選、日本共産党には入れないないと思う。」

 

母の反応はこうだった。

 

「じゃあ、選挙に行かなくていい。」

 

・・・え?

投票権って、いつから「家の備品」になったの?

冷蔵庫とか炊飯器みたいに、家の方で使用停止できるものなの?(違うよね(;^_^A

 

その瞬間、私は返した。

 

「投票には行くよ。どこに入れたかは言わない。これは私の権利だから。」

 

ここで話は打ち切り。

抗議しない。説明もしない。

説明を始めた瞬間、私は「娘」じゃなくて、採点される答案になる。そして採点者は、だいたい最初から赤ペンを握っている。

 

私はもう、一人で踊らない。

「誰も傷つかないように」って気配を読み、私だけが黙るのもやめる。

私は私と手を組む。

自分の人生のハンドルは、自分で握る。

どうか、私とワルツを・・・そう言える自分でいたい。

 

最後に、自分に言う。

 

私は一つ進化した!!!!

今日の私は、私のまま。私の足で立っている。

 

読んでくれてありがとうございます(∩´∀`)∩💗

(投票先当てゲームはしません。いわゆるタブーとされる政治と宗教のことを書いちゃったけど、コメント欄は平和によろしくお願いしますm(__)m)

 

「私とワルツを」歌詞