前回に引き続き、

島原・天草の乱について簡単にまとめます
 
岡本大八が告げ口したから、キリシタン大名が処刑され、
 
島原と、天草の大名のポストがあきましたね。
 
そうすると、
今まで有馬晴信や、小西行長につかえていた家臣が
ポストにつくんじゃなくて、
 
他から大名が派遣されて
その大名につかえていた家臣たちが
その場所をおさめたんです。
 
で、後任におさまったのが、
島原は、松倉重政と
天草は、寺沢広高です
 
 
松倉重政は、奈良の五條をおさめていた時は素晴らしい名君だったんですが
今も奈良の五條には記念のホールとかあるみたい
奈良の五條を作ったと言っても過言ではないくらい道を整えたり色々基礎を整えた大名らしいです。
 
松倉重政は
島原に来てからは、
 
身分不相応の立派な城を建てたり、
 
大量の武器を購入したり、
 
政府から頼まれる公共事業も、
身分不相応なくらいたくさんお金がかかる事業をすすんで引き受けたりしました。
 
 
でも、身分不相応な分は、
どこから持ってくるかって言ったら
領地の皆から受ける
納税を厳しくしたんです。
9割くらいが税
牛が通っても税
埋葬しても税
 
本当、くしゃみしても税金をとられるんじゃない?
ってくらい
生まれてから死ぬまで
ずっと税金をとられていました。
 
 
で、
その平民の中には、
処刑された有馬晴信の家臣たちが
働き場所もなく、
刀をクワに変えて田畑を耕して暮らしていたんです。
 
 
でも、いくら田畑を耕しても
ほとんどを税金で持っていかれる
 
出来ないと言ったら、
網のかごに入れられ川に沈められたり、
ひどい虐待をされる
 
自分たちだけでなく、
上のまとめ役の身重の妻をひっつかまえて、
網のかごに入れて川に沈めたから
その奥さんは、その3日後くらいに
お腹の赤ちゃんと共に亡くなった。
 
 
で、これでは生きていけない。
食べ物もないし、未来もない。
 
 
元々、島原をおさめていた大名の家臣だった人が、
自分たちの知識を活かして
反乱をおこすぞ。と、
一緒にキリスト教も弾圧されていて困っているグループも力を合わせて戦いましょう。
 
 
仲間は多い方が良いですよね
 
島原でも反乱がおきて
天草でも反乱がおきて
一緒に戦いましょう
 
 
自分の不満だけが原動力ではなく、
神のお導きもあった方が良いですよね
 
で、たまたま1613 年の禁教令によって国外退去命じられた宣教師マルコスフェラロが残した
宣教師の予言がありました
 

「此より25年後に16歳の天童が現れ奇跡を行う。その時、天は焼け、地は不時の花を咲かせ、山野には忽ち白旗がなびき‥‥」

 

ちょうど25年後だったんです。

松倉重政に苦しめられて、もうこのままでは生きていけない。と、反乱しようと立ち上がったのが

で、16歳で賢い少年はいないかな?

小西行長の家臣の子である少年がいるじゃないかと、一揆の象徴となったのが天草四郎です

 

島原や天草で、大名に反乱をおこしただけではあんなに活躍しなかったでしょうが

 

元々は大名の下で働いていた人がたくさんいたし、

あれだけの事件として歴史に名を残した事件になったんですね。

 

結論

島原・天草の乱の原因は、

①キリシタンの弾圧

②領主による圧政

③旧家臣団による反乱

ですが、

 

全部を説明したら教科書が広辞苑の厚さになるから

キリシタンの弾圧が原因と、説明していますが、

 

本当の理由は、領主による圧政と、旧家臣団による反乱が一番の理由だと思います

 松倉重政も、奈良の五條で余生まで過ごしたかっただろうに、

素晴らしい実績をしたばかりに、命令で新たな土地に行かされて
腹がたったり、虚しくなったり、またイチからしなきゃいけないのか?

とか、奈良の人に通ったやり方では、なまじ金持ちの土地柄では上手くいかなかった?とかあるんだと思う