奈良の吉野山に納めた
自筆の経典
「金峯山経塚出土紺紙金字経
(きんぷせんきょうづか
しゅつどこんしきんじきょう)」
は、
平安時代の権力者、
藤原道長と
道長のひ孫にあたる師通が、
みずからが写経したとされる
合わせて23巻の経典で
新たに国宝に指定されることに
なりました
【道長が自筆の経典を納めた意図は】
藤原道長がみずから書いた日記、
「御堂関白記」などには、
少なくとも3回、
金峯山に参る計画をした
と記されています。
▼1回目は
道長が政権の座についた
3年後の長徳4年、998年。
▼2回目が
実際に山に登った寛弘4年、
1007年とされています。
それぞれの年に
自ら書き写した経典が、
今回、国宝に指定される
経典にあたるということです。
また、経典が入っていたとされる
金銅製の筒には
道長の名前が記されているほか、
寛弘4年、1007年に
金峯山の山頂に納めた
と記されています。
▼長徳4年の経典は
道長が政権の座についたお礼や
病気がちの体を治したいという
思いのほか、
▼長女が無事に
天皇家に入ることなどを祈って
書き写したのではないかと
考えられるとしています。
と、あります
法成寺と道長
921年、醍醐天皇は
お大師さまに
「弘法大師」の諡号(しごう)を
贈られました。
この時、
東寺長者の観賢(かんげん)は
その報告のため
高野山へ登られました。
奥之院の廟窟を開かれたところ、
禅定に入ったままの
お大師さまに出会われ、
その姿は普段と変わりなく
生き生きとされていた
と伝えられています。
この伝説から
お大師さまは、
今も奥之院に生き続け、
世の中の平和と人々の幸福を
願っているという
入定信仰が生まれました。
この入定信仰は、
1027年に
藤原道長(ふじわらみちなが)が
高野山に登山してから
急速に広がったとされています。
その情景を
「有りがたや、
高野の山の岩蔭に
大師はいまだ
在(おわ)しますなる」
と詠んだ歌が
今も伝えられています。
と、あります