蛯原さまの考察
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『麗しき丹後の海』番外編
〜シイネツヒコとオトウカシは風神と雨神
戦いに勝利するため、
神武天皇は行動をおこします。
椎根津彦(しいねつひこ、うずひこ)に
粗末な服と蓑(蓑笠、あるいは箕)を着せて
老父(おきな)、またオトウカシに
箕(み、みの)を着せて
老嫗(おみな、老婆)の格好をさせ、
天香山の土を
こっそりと取りに行かせようとするのです。
しかし、途中には、
たくさんの敵が道を塞いでいます。
このような状況で、
宇陀と天香山(天香久山)との往復は
可能なのでしょうか。
何はともあれ、変装した二人の出発です。
二人が敵軍に到着した時、敵の兵士らは、
「なんと、醜い二人なんだ!」
などと言って道をあけ、
早々にここを通してしまいます。
この変装のおかげで
椎根津彦とオトウカシは、
天香山の土を無事に
神武天皇のもとへ
持って帰ることができたのです。
この土を見て、神武天皇は大喜びです。
しかし、この天香山の土には、
どのような意味があるのでしょうか。
実はこの山の土、
強い呪力を有する土
(埴土、はにつち)で、
倭国(大和)支配の象徴である
と考えられているからなのです。
天下を治めたい
カムヤマトイワレヒコノミコト
(神武天皇)、
早速、この呪力がある天香山の土で
天神(あまつかみ)やオトウカシのいう
祭祀用の土器を造り、
この土器を
「丹生の川上」まで運んで
天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を
祀りました。
ここで、神武天皇は神意を占います。
カムヤマトイワレヒコノミコト
(神武天皇)は、
次のように神意を占います。
「私は平瓮(たいか)(甕、壺の一種)で
水無しに握り固めた
飴(たがね)を造ろうと思います。
もし飴が出来れば、
武器を使わなくても
天下を治めることが出来るでしょう。」
と。
そして飴は、
自然に出来上がりました。
(飴は土公や竈門神の供物)
また、次のように祈ります。
「新酒を入れた土器を
丹生の川に沈めようと思います。
もし、大小の魚が全部酔って、
浮き流れるようであれば、
私は必ず
この国を治めることが出来るでしょう。
もし、そうならなければ、
事を成し遂げることは出来ないでしょう。」
と。
土器を投げ込んでしばらくすると、
魚が浮き上がり、
口をパクパク開いています。
椎根津彦(しいねつひこ)が
その事を報告すると、
カムヤマトイワレヒコノミコト
(神武天皇)は、
大いに喜んで、
丹生の川上のほとりにあった
数多くの榊(さかき)を抜いて
神々に捧げ、お祀りをしました。
このときから、
神々を祀るときには、
榊を捧げ、
御神酒などを入れる土器などが
置かれるようになったということです。
さて、
カムヤマトイワレヒコノミコト
(神武天皇)の一行は、
丹生川上で
天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を
祀った後、
八十梟帥(やそたける、土蜘蛛)を
国見丘に攻撃しました。
戦いを優勢に進めてはいるのですが、
少々、軍に疲れが見えてきました。
そこで
カムヤマトイワレヒコノミコト
(神武天皇)は、
「楯並(たたな)めて
伊那瑳(いなさ)の山の
木(こ)の間(ま)ゆもい行き目
守(まも)らひ戦へば
我はや飢(え)ぬ嶋つ鳥鵜飼が徒(とも)
今助(います)け来(こ)ね」
と謡い、兵士たちの心を慰めました。
「伊那瑳の山の木の間から
相手を見守って戦ったので、
腹が空いた。
鵜飼の仲間よ、
たった今、助けにきてくれ。」
と謡ったのです。
「伊那瑳の山」とは、
榛原山路を中心にそびえる
伊那佐山と考えられています。
「穿邑」から
この伊那佐山が正面に見えます。
熊野から吉野を経て
宇陀へと入ってきた
カムヤマトイワレヒコノミコト
(神武天皇)一行、
まず目にしたのが
この伊那佐山であったことから、
この謡にもなったのでしょう。
〜うだ記紀・万葉 より
【箕宿】
後漢の応劭『風俗通義』祀典篇に
「風師者箕星也。箕主簸揚、能致風気」
とあり、
周代に風伯(箕宿)と雨師(畢宿)を
祭る祭典があったとされる。
道教では
風伯を白髪の老人として描写しており、
左手に車輪を持ち、
右手に持った扇を
円形に広げている姿として
描写されており、
風伯方天君と称されます。
雨師も
老人として描かれており、
陳天君と呼ばれています。
中国では
風神と雨神の形成は比較的早く、
『周礼』の『大宗伯』編では、
”祭事を執り行うときには、
司中、司命、風伯、雨師を任命した。”
とあります。
中国の最も初期の風神は
箕星(箕宿、きせい)
あるいは箕伯(きはく)と呼ばれました。
『風俗通義』では、
"風師は箕星である。
風を起こせるので箕伯と称た。"
とあります。
オトウカシは
宇陀の水取(もいとり)らの祖とされ、
水取は
宮中の飲料水を管理する役職です。
畢宿は
猿田彦の投稿でご紹介したように
参宿(海人の星)を導く存在であり、
神武東征では塩土翁であったり、
この『オトウカシ』でもあるんです。
シイネツヒコは
神武天皇と出会う場面で、
「亀に乗って鳥のように羽ばたいていた」
と、表現されていて、
海で風を操る神(国津神)のように
描かれています。
また、シイネツヒコやオトウカシが
蓑笠や箕をつけて
老夫、老嫗に変装する場面では、
風神とした箕星(箕宿きせい)
あるいは箕伯(きはく)、
雨師の畢宿を
モデルとしているかもしれません。
神武天皇が
「丹生の川上」まで運んで
天神地祇(あまつやしろくにつやしろ)を
祀るのは、
空海の投稿でもご紹介したように、
丹生はニウ、つまり牛宿で
牛宿には天の川を挟んで
織姫星や牽牛星があり、
丹生川は
天の川に見立てられていたからなんです。
丹生都比売はワカヒルメで、
ワカヒルメは織姫を
モデルにしているのです。
丹生川上で
度々雨乞いの儀式が行なっていたのは、
こういった故事に因んでいたからで、
オトウカシの末裔は
宮中で飲料水を扱う水取
となっていったのです。
このように、
シイネツヒコやオトウカシが
『蓑笠や箕』で変装するのは、
スサノヲが
高天原を追われて風雨の中、
青草の蓑笠をつけ、
醜い来訪神(方位神、歳神)となる
のと同じで、
大和の国の現世と
隠世(かくりよ)の境界にある
天香具山の土(土気)で
酒を祀る土地神信仰
(この場合は土蜘蛛は土公神であり、
竈門神、土中で悪い星神、
鬼神を意味する)を
方位神が司り、
北極星(天皇大帝)になる為の祭祀を
意味しているのです。
また、シイネツヒコは
丹後半島の籠神社では、
別名を珍彦・椎根津彦・神知津彦
籠宮主祭神天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖としていて、
国津神から
天孫の彦火明命の第四代である
と伝承されているんです。
これは些か矛盾している
(国津神か天津神か)のですが、
丹後には
海部の統轄者として
凡海氏の存在があり、
凡海氏は大海人皇子の壬生であり、
阿曇氏と同族とする
海部の伴造という海洋氏族であると共に、
朝鮮半島との交易を通じて、
金属器に深くなじんだ氏族
でもあったのです。
*凡海 麁鎌(おおあま の あらかま)
飛鳥時代の人物。
大海蒭蒲とも書く。
「凡海・大海」は旧仮名遣いでは、
「おほあま」、「おほしあま」、
あるいは「おほさま」と訓む。
姓は始め連、後に宿禰。
大海人皇子(後の天武天皇)の養育に
関わったと推定され、
大宝元年(701年)に
陸奥国の冶金に遣わされた。
位階は大宝元年当時で追大肆。
凡海氏は
阿曇氏の同族とされ
(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、
摂津国を本拠にした氏族である。
大海人(おおあま)皇子の名は、
凡海(おおあま)氏の女性が
皇子の乳母であったことから
付けられたもので、
凡海氏が
大海人皇子の養育にあたったものと
推定されている。
〜wik参考
*天武天皇の殯(もがり)に
大海宿禰蒭蒲が
壬生(天皇の幼少期)のことを
誄(しのびごと)していることから、
天武天皇とは
兄弟同然だったかもしれませんね。
神武東征は
いわゆる瀬戸内海を行くのですが、
瀬戸内海各地に行宮を作るのは、
白村江の戦い以降、
瀬戸内各地に城を築くのと類似していて、
行宮の伝承地は
岡山県の笠原諸島の
「吉備の高島宮」をはじめとして、
瀬戸内海航路の
重要な泊でもあるんです。
神武天皇は
大船団を率いてきたのですから、
当然といえば当然なことですね。
また、シイネツヒコが
神武天皇と出会う場所は
『速吸瀬戸』と呼ばれ、
現在の『豊予海峡』
或いは『明石海峡』ともいわれています。
どちらも好漁場として知られており、
潮流が速いことから、
獲れる魚は身が引き締まり脂がのっており、
市場での評価が高く、
豊予海峡の佐賀関港に水揚げされる
アジとサバは、
魚自体の品質の高さから
「関あじ」、「関さば」として
全国的に有名な
高級魚のブランドとなっていますし、
明石海峡は
「明石蛸」「明石鯛」がとれる、
こちらも潮流の速い海の難所といえます。
海部直の祖神は
『笠津彦神、笠津姫神』でしたね。
笠は
丹後の泊(潟港)であり、
風雨や陽射しを避ける
『風待ち、潮待ち』の場所ですから、
シイネツヒコが
潮流の速い海峡にいて、
風や潮流を操る神だとすると、
海部社家の神々の一柱になっていても
不思議ではないですね。
*風の神、
シナツヒコ、シイネツヒコと似てますね。
*若狭(ワカサ)にも笠臣がいましたね。
*青葉山は海から見ると傘ですね。
文、蛯原春比古さまに
帰属します
マネは一切、できません!
ありがとうございます