こちらで、拝観料を支払います
宝物殿での拝観も含みます
中尊寺ほか
山内寺院の文化財を
収蔵・展示する施設。
1955年に開館したが、
現在の建物は
開山1150年の
2000年に新築されたもの。
もと本坊本尊の木造阿弥陀如来坐像
(重文、中尊寺蔵)、
峰の薬師堂にあった木造薬師如来坐像
(重文、願成就院蔵)、
閼伽堂にあった木造薬師如来坐像
(重文、金色院蔵)の
3体の巨像をはじめ、
多くの文化財を収蔵展示する。
昔は、金色堂だけ
拝観料でしたが
今は、この階段も拝観料のうち
もちろん、撮影禁止です
申し訳ないのですが
わたしは
久しぶりだったのにも
かかわらず
御朱印いただければ
それでいい、と
しみじみと、金色堂を
拝観することは
ありませんでした
なぜか
中尊寺の月見坂を
登る手前から
「あれ?
こんなもんだったかな?」
と、疑問符だらけでした
わたし的な感覚です
国宝 中尊寺は
世界遺産となり
要所要所、各御堂の
御朱印もいただけるように
なりましたが
なぜか、昔、小学校の頃
登った時の
ワクワク感、
神仏への畏れが
ありませんでした
それは、たぶん
神仏さまの威厳が
薄れているような感じがした
からかもしれません
そうだ!
おどろおどろしさ!
それがない!
各御堂をひとつひとつ巡り
どうしてなのか
すぐにわかりました
国宝の一切経を
納めていた建物で、
一部平安時代の古材が
使用されているが、
建築年代は鎌倉末期と
推定されている。
内部にはかつて
国宝の螺鈿八角須弥壇が置かれ、
壇上には
獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる
文殊五尊像(重文)を安置していた
(現在は須弥壇、文殊五尊像ともに讃衡蔵へ移動)
この木の根道も登れなかった
まだ活きている根を
履いている靴で
踏みたくはなかった
1962年、
金色堂の解体修理工事が
始まるまでの約500年間、
金色堂を風雨から守ってきた堂で、
1964年に
100メートルほど
北西の現在地に移築された。
建築年代は
室町時代中頃と推定される。
弁慶の墓所
「色かへぬ松のあるしや武蔵坊 素鳥」の
句碑があります。
義経を庇護していた藤原氏の当主・泰衡が、
源頼朝の圧力に屈して
義経を自害に追い込んだのは、
文治5年(1189年)のことである。
数百騎で衣川館へ攻め込んだ
泰衡の手勢に対して、
義経は抵抗することなく持仏堂に籠もり、
妻子を手に掛けると自害して果てた。
わずかにいた義経の家来も
全て討ち取られたという。
伝承によると、武蔵坊弁慶は
攻め入る敵を前にして、
持仏堂の前に立ちはだかって
侵入を防いだとされる。
敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、
弁慶は決して倒れることなく、
堂を守るように立ったまま死んだとされる。
これが有名な“弁慶の立ち往生”である。
と、あります。