『にゅうもん!』第十回『カエアンの聖衣』 | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

 「聖衣」と聞くと教皇の着る白くて……、と西田さんは言うが、僕の世代だと「聖衣」はどうしてもカタカナで読んでしまう。「小宇宙」もだ。だから教皇の聖衣と言ったら双子座の……

 

 まあ、おっさんの懐古はさておき、『カエアンの聖衣』だ。
 唯一無二ともいうべき「服SF」である。既に古典的な作品だし、有名作品だからフォロワーがいても良さそうなものだけど、なかなかそんな作品は世に出てきていないようだ。さすがはバリントン・J・ベイリーというところ。
 「服は人なり」ということで、どんな服を着ているか、で人となりが決まる、そういう世界。「襤褸は着てても心は錦」みたいなのはカエアン文化にはないのだ。
 確かに、僕もここぞという仕事の時には、ぴしっと折目のついた、とっておきのシャツとスーツを着て、ちゃんとしたネクタイを締める。
 そういえばずいぶん若いころ、当時付き合いのあった女性に、「補正下着は私の鎧にして武器。これがあるから立ち向かえるし戦える」という力強い宣言をされたことがある。

 西田藍さんは、サイゾーの『西田藍のアイドル的制服偏愛論』の第3回で、「制服は人を規定するシステム」と書かれている。制服が持つ権威性により、人はその制服が意味する人物らしく振舞おうとする、そういう力が制服にはあるのだ、と。
 これはカエアン文化の精神に通じるものがある。
 制服というちょっと特殊なものではあるけれど、服の持つ力というものを理解されている西田さんなら、どんなふうに感じるだろうか。

 もうひとつ。
 バリントン・ J・ベイリーと言えば、ワイドスクリーン・バロックの旗手だ。とにかく、あらゆるアイディアをこれでもかと詰め込み、壮大なスケールと、絢爛たる派手な描写、めくるめく疾走感でストーリーを展開させる、パワフルなジャンルで、ハードSF派の人は眉をひそめるかもしれないが、僕は大好きだ。
 ただなあ、ワイドスクリーン・バロックのもう一人の雄と言えば、アルフレッド・ベスターだ。cakes版「にゅうもん!」の『虎よ、虎よ』の回と、2017年2月号の「ディストピア特集」で取りあげた作家ではあるんだが、西田さんにはどちらも響かなかったんだよなあ。

 さて、ベスターが駄目だった西田さんに、ベイリーはどう読めたのか。
 ちょっと前に、「ウィリアム・ギブスンの駄目だった西田さんに、パオロ・バチガルピはどうだったのか?」みたいなことを書いたな。※2
 さて、では、そんなところを気にしながら、西田さんの文章を読んでいこう。

 物語は、二つのパートに分かれている。西田さんは、まずこの概要を書いてゆく。
 まずは、カエアン人と対立するザイオード人のペデルが、カエアンでも「特別な」最高の服、銀河に五着しかない、天才フラショナールのデザインした「フラショナール・スーツ」を難破船の中で偶然手に入れ、数奇な運命に巻き込まれていく話。
 なんか、こうやって端的に書くとロボットアニメみたいな展開に見えるが、全くそんなことはない。

 もうひとつは、カエアンの服飾侵略(!?)を恐れたザイオード政府の命を受け、秘密裏にカエアン文明を調査する文化人類学者アマラを中心とするチームのが、カエアンの服の真の姿に徐々に近づいてゆく話。
 こうやって端的に書くと異文化コンタクトSFみたいに見えるが(アマラは女性学者だし)、全くそんなことはない。

この二つのストーリーがメイン、なのだが、つめ込まれたSFミームは紹介しきれない。一言で言うならば、「服飾SF」。

 繰り返すが、これでもかとばかりにアイディアを惜しげもなくつぎ込むのがワイドスクリーン・バロックだ。このあたりのごちゃごちゃ感がどうかと思ったのだけれど、どうやら西田さんに受け入れてもらえたらしい。※3
 何が良かったのだろうか。
 西田さんはかつてヴォネガットが駄目だった理由として、「テンションの高い文章が好き」というようなことを言われていた。
 そういうことなら、言われるまでもなくワイドスクリーン・バロックは異様な熱気を帯びているのだけれど、ベスターも似たようなものだ。だとしたら何か。
 また勝手な解釈をするけれど、もしかしたら、アマラの存在があるのではないだろうか。

 一方のストーリーの中心人物であるアマラは、割と思い込みが激しくて、独善的で、意外と失敗の多いという、とんでもない人なんだけど、この人が講義する「一生を金属カプセルの中で暮らすソヴィヤ人」と「生まれる前から靭帯改造し、全裸で宇宙空間に暮らすサイボーグ人」の歴史は、ものすごく面白い。
 大法螺ともいうべきものだし、ハイテンションというわけではないけれど、オタク的な熱のこもった弁舌にも読める。
 西田さんも、こんなふうに言及している。

彼らの敵対の歴史はアマラの講義におまかせするが、日本人には笑える小ネタが詰まっているのでお楽しみに、ふふ。

 たぶん、ここは本当に楽しんでいるんだろうと思う。
 なんでこんな言い方をしたかというと、西田さんは「にゅうもん!」で過去に二回、文末に「ふふふ」とつけることをしているのだが、どちらも少々ネガティブな表現に読めるからだ。ちなみにその二作品は『夏への扉』と『接続された女』だ。
 どちらも、やや「意地の悪い笑み」に読めたんだよな、僕としては。※4

 ただ、今回は「お楽しみに」とあるし、ちゃんとポジティブな印象をうける。まあ、このネタはたぶんあれで、駄洒落に近い下らなさなんだけど、思わず笑っちゃうものだとは僕も思う。
 この全裸サイボーグ人は日本人の末裔らしいんだけど、ベイリーは日本人をなんだと思ってたんだか。こういうめちゃくちゃさが、ワイドスクリーン・バロックだし、それを楽しむのが正しい。
 西田さんは後ろの方でもこう書いているので、楽しんでいるのは間違いないと思う。

カエアン文明の旅はおもしろおかしく、くすりと笑いながら続いていく。
 
 話を戻そう。
 服飾文化に造詣の深い西田さんなら、この作品を、というかカエアン文化を、より楽しめるのではないかと思ったのだけれど、やはりさすがというか、ロラン・バルトの言葉を引用されて、この説を補強している。僕はバルトなんて名前を聞いたことがある、という程度なので、あんまりコメントできないのだが、西田さんがカエアン文化に理解を示されていることは伝わる。

フランスの哲学者ロラン・バルトは、「衣服によってはじめて人間の身体は意味するものになり、従って記号の運搬者となる」と言った。衣服は、単なる覆いではない。そして、単なる飾りでもない。

 ただ、ここで西田さんが着目しているのは、原カエアン文明であるところの、金属カプセルに入ったソヴィヤ人だ。彼らにとって、金属カプセルは自分自身の輪郭であり、我々が、西田さんの表現を借りるなら、我ら古代地球人が、輪郭として認識している「皮膚」ではない。ソヴィヤ人にとって、皮膚に包まれている柔らかいものは内臓という認識だからだ。
 金属カプセルという極端な例なのでわかりやすいのだけれど、肌の露出具合というのは文化によって様々なものだ。また、皮膚はあいまいな境界であり、身体の一部でありながら剥がれ落ちた途端に汚物になる、と西田さんは指摘する

 この議論は面白い。

毛、爪、歯、硬さを持った器官と、やわらかな内部や粘膜、指先、足先、陰部。同じ身体でも、〈わたし〉そのものを示す割合は、異なる。

我ら古代地球人が、衣服と身体の関係を考える時、皮膚という、やわらかであいまいな表面に重ねる表面であったり、羞恥や欲望を露わにする装置であったりする。


 このあたりの論の展開はやはり流石だ。
 フィクションの中の制服のスカート丈や、ブラウスの下にキャミソールを着るかどうか、についても、こだわらずにはいられない西田さんである。※5
 その西田さんが『カエアンの聖衣』について語るなら掘り下げてほしいと思ったところを、期待以上に深く語ってくれている。
 衣服を身に着けるということ、あるいは肌を露出させるということは、外界と自己の境界を定義することだとしたら、そこは常に曖昧であり、着ること/着ないこと、にそれぞれ意味があることになる。では、何も身に着けないことはあらゆる記号から自由なのか? 全裸サイボーグ人以外にも、ザイオード人の中にも個性を色づけする服を拒否して全裸で暮らす原理主義者たちが出てくる。
 まあちょっと、安全面と衛生面からいかがなものかという気がするが。

 ワイドスクリーン・バロックが、いつの間にか服飾文化論みたいになっているとは。
 しかし、もうひとつ。僕が既にオチまで知っていたがゆえに、ものすごく面白かった件について述べたい。
 (オチまで書いてしまうから、少し改行)










 フラショナール・スーツは西田さんが書いている通り新種の「服飾生物」なのだが、これは人間にまとわれることで能力を発揮し、その能力で人間を虜にし、やがて全ての人類にまとわれることで、人類の支配をもくろむものだったのだ。
 ラストシーンでは、銀河に五着しかないはずのフラショナール・スーツが大量に生えている(!)場面に遭遇するのだが、すでにその魅力を知ってしまっている人間たちは近づくだけでスーツの虜になってしまうので、攻撃することができない。

 だがしかし、金属カプセルで生きるソヴィア人のアレクセイは違った。スーツを着ることなど考えたこともない彼にはスーツの魅力は通用せず、空飛ぶ金属カプセルで次々とフラショナール・スーツを焼き払ってゆく……というふうに、僕は記憶していた。
 が、西田さんの書いたこの文章で、ふと気がついた。

一着の「スーツ」から連想する……彼らが理想とする人類像……能動的意思……はっきり言って最悪な性格の学者アマラが、女性であった意味。

 あっ、と思った。そうだ。アレクセイ以外に、スーツの魅力に屈しない人物がいた。アマラだ。女性である彼女は、ぱりっとした三つ揃いスーツなんぞ着ようと思わないのだ。
 なんだそりゃ、と思わないでほしい。
 これはつまりスーツが(というか、それを作る服飾生物プロッサムが)、まずは三つ揃いスーツを着るような人を支配することで、やがて全人類を支配できると考えた、ということなのだ。
 そしてその考えゆえに、彼らのほとんど成功しかけていた人類支配の夢がついえるのである。

 なんで初読のときに、そこに気がつかないかなあ。
 リベラルだと思いつつも、僕の中に文化として根付いているセクシスト的な考え方があるということだ。
 いやまさか、ワイドスクリーン・バロックでジェンダー論を感じるとは! 上から目線で「西田さんに響くかなあ」なんて言っていた僕だが、逆に新しい楽しみ方を教えてもらった。いや、恥ずかしいが、それ以上に素晴らしいことだ

 本当に、この回は「にゅうもん!」の中でも屈指の面白さだと思う。
 これは、西田書評の真骨頂だ。※6

この世界においても、女性は男性に比べて受動的な性だと言われているが、彼女はそんなのなんのその、なのだ。改めて服飾とジェンダーについて意識したのであった。
 


※2 「にゅうもん!」第七回『第六ポンプ』

※3 西田さんに受け入れられなかったベスターの『虎よ、虎よ』は最初から引いてたし、『破壊された男』はストーリーに一切触れなかった。同じく無理だったヴォネガットの『猫のゆりかご』とか、ギブスンの『ニューロマンサー』とか、駄目なら駄目で、西田さんははっきり書くのだ。

※4 このあたりは、『接続された女』評の感想に書いた。Link

※5 「制服偏愛論」第6回と,2017年9月23日のTwitterで。

※6 西田さんは、自撮の横のキャプションで「聖衣が特定の属性が付加されないスーツであるの意味深!」と書かれている。そう、意味深!