【特集ちくま文庫30周年記念】クリーム色の彼ら | 高い城のCharlotteBlue

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書評家アイドル 西田藍さんの、書評を紹介してゆきます。
基本的スタンスとして、書評でとりあげている作品は読んだことがあるとしています。
ネタバレを気にする方はご注意ください。

【特集 ちくま文庫30周年記念】 クリーム色の彼ら

 

 実を言うと、僕はちくま文庫には気後れする。クリーム色の表紙がならんだ本屋の棚を見ると、なんとなくばつが悪くて近寄りがたい。

 それなりに色々読んではいる。『三島由紀夫レター教室』なんて何度も読み返したし、赤瀬川源平の『路上観察入門』『超芸術トマソン』とかも好きだった。あとは水木しげる『ラバウル戦記』とか。確か、J・G・バラードの短編集を最初に読んだのもちくま文庫じゃなかったかな。

 なんで気後れするかというと、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』を学生時代に手に取り、途中で挫折したからだ。何巻まで読んだんだったかな。

 とにもかくにも最後まで目を通さずに、途中で挫折した本は、これだけだ。※1

 

 そんなわけで、ちくま文庫はなにも悪くないが、どうも苦手意識がある。この二十年ぐらいは、ちくま文庫を拝して遠ざけていたように思う。

 

 そのちくま文庫30周年ということで、2015年に西田藍さんがエッセイを書かれている。

 紹介されている本は三冊。そのどれもが、僕は未読だった。今回、ようやくすべてを読み終わったので、このエッセイの感想を書こうと思う。

 

 西田さんの本棚には、このクリーム色の背表紙が結構並んでいるらしい。積読本もあるように書かれているが。

 どちらかというと、この表紙の本には「大人」なイメージを持っているのだそうだ。

 

その色は控えめで大人なイメージ、大人のわたしを形作るはずだと思い手にとったのであった。昨年、先月、昨日でさえも、過去のわたしは少女時代と同化し今この瞬間のわたしからは遠い。この先の大人になるはずのわたしへ、道標になりますように、そう思っていたり、思っていなかったりしたのかもしれない。

 

 僕がプルーストから逃げ出す前は、ちくま学芸文庫が創刊されていなかったと思う。だから、ちくま文庫は割と古典文学とかそういうのの多いイメージだった。『デカメロン』とか、シェイクスピアとか、サキとかあったし。岩波ほどガチガチではないけれど、みたいな。

 そういう意味では、西田さんの思った「大人」と僕のイメージは全く違う。

 

脳みそを磨りガラスが囲っていて誰かが中から引っ掻いていていつも嫌な音がする。ガラスを割って、出ておいでよ。でも難しいから、本をあてがって、嫌な音を気にしないようにする。いつのまにかすべての過去は少女時代だ。

 

 この文章は何を意味するのか。解釈は先送りにして、紹介する本を吟味したい。

 

 最初に紹介するのは、高野文子『るきさん』。コミックだ。

 この作品は知っていた。ちゃんと読んだことはないけれど、雑誌「Hanako」に連載されていた当時、そこそこ話題になっていたので、立ち読みレベルで何回か読んだことがあったからだ。

 ただ、この記事を読んで、どんなものかと検索するまでは忘れていたけれど。

 

高野文子『るきさん』は軽やかだった。都会で暮らす自立した女性。バブル真っ只中で軽やかに生きる、るきさん。(中略)なにもかも違う生活を垣間見るその時間は贅沢で、でも、遠い、あまりにも遠い。読後には、そういうことってなんにも関係ないのだと気付いた。距離の近さは何の担保にもならない。

 

 軽やかに、世知辛い雑事にとらわれることなく、自由に生きる女性、るきさん。

 この姿に、西田さんは惹かれたのだろう。「大人」だ。

 西田さんが読んだという「少女時代」がいつごろかはわからないが、たぶん作品の描かれた時代とはだいぶ違っているはずだ。ちくま文庫版が1996年12月の初版。Wikipediaによると、連載期間は1989~1992年だ。

 

 端的に言えば、連載時の感覚なら、るきさんは清貧生活を送る人に近い。華やかで贅沢な狂騒時代に、そこから一歩引いてマイペースで生きている。当時、「二十四時間戦えますか?」というコピーがあったが、この時代は働けば働くほど収入が上がる、あるいは上がるとみんなが信じている、そういう時代だった。

 そんな時代に、一ヶ月分の仕事を一週間で片づけ、あとは趣味に生きる女性。それも図書館で本を借りたり、街をぶらぶら散歩したり、という地味なもの。

 一晩で数十万を使うのが、珍しくもないとされていた時代にだ。

 まあ、都会の仙人、隠者、世捨て人、といったところか。一種のアンチテーゼだったろうと思う。

 

 しかし、もう言うまでもないだろうけれど、今となっては、るきさんの生活はむしろ豊かな方だ。こんな生き方ができればどんなに良いか、と思うむきも多いのではなかろうか。

 変な人として生温かく見守るのではなく、羨む対象になってしまっている。

 

 もちろん、周囲に流されず、身の丈でマイペースな暮らしを続ける女性、というのが、当時から一目置かれていたのは間違いない。高級ブランドに身を包んだ贅沢な暮らしというのも、周囲に流されてのことだったりしたわけだし。

 そういう意味で、「大人」だったのは当時からだ。

 生活の豊かさ云々はともかく、その自由さという点において、西田さんが憧れて、また遠くに感じたというのはわかるような気がする。ただ、その豊かさが、現在の自分との違いによるものとは限らない、ということも。

 

 次は、武田百合子『遊覧日記』だ。ユリイカにもこの本について、とても良い文章を書かれているけれど、「これはアイドルを始めてから読んだ本。この本をテーマに寄稿依頼が来たのだ」とある。

 何度か書いているが、僕は西田さんのユリイカの文章が好きなので、その執筆当時のエピソードとして、大変興味深い。

 

当時、地方で日雇い派遣をしていて、その日はモデルルームの受付。誰も来ず、午後、少しくらいならと本を開いた。郊外。煤けた道路、照った駐車場、わたしがそこから見える景色はぼやけ、くすんでいたが、武田百合子の文章を覗くと、くっきりピントが合っていて、鮮やかだった。

 

 これはもう、ユリイカの文章と同じ。情景の浮かぶ文章。現実よりもピントが合って見える、というのは、いかにも『遊覧日記』を表している。

 ユリイカの『遊覧しよう』にも、このあたりを描いた部分がある。ちょっと比べてみよう。

 

武田百合子の文章の、くっきり写し出された景色一枚一枚が、鋭い視線が重なって、振り返れば別の景色が覗けそうなほど、空間の中に入り込める。私も歩き出している。

 

 ここがより具体的で、西田さんの考えが鮮明に浮かび上がる。

 実際に歩いている景色を、具体的に描いた描写もある。武田百合子のような落ち着いた「大人」の視線。この部分はまさしく西田藍の「遊覧」だ。

 

大型店舗、休耕田、空き地。誰も歩いていない道。学生しかいない駅まで着慣れないスーツで歩く。いつもは、そういう夕闇にどうしようもない悲しさを感じていたけれど、武田百合子の眼差しを知ったその日は、楽しかった。車から見るための大きな看板も、きらきらして綺麗だと思ったし、開発中でパンプスが刺さる砂利道だって軽々歩けた。つまらない昨日にも面白味を感じた。

 

 ユリイカと合わせて読むと、本当に面白い。

 ページの余白に時給計算がしてあって、「その横に「整えられていない人間の営みにほっとする」とメモしてあった」のだそうだ。

 この文章はユリイカでも使われている。

 ちょっと違うのは、先ほどの引用箇所は人の気配が希薄だが、ユリイカでは「正しそうな人間の波に卒倒しそうになる」とあること。

 これは、西田さんの心象風景が現実に投影されたものと考えると、なかなか興味深い。

 

 最後の一冊は、塩山芳明『出版業界最底辺日記』。これが、最近になってようやく手に入れて読めたので、この文章を書くことにしたのだ。

 エロ漫画というのは、僕はあまり関わってこなかったので、次々出てくる雑誌名、漫画家の名前に全く覚えがなくて戸惑ったのだけれど、表現規制の嵐の中でしたたかに生き抜く「下請け編集者」の視点は面白い。まったくもって酷い業界と人々なのだけれど、なんとも正体不明な活力があって、パワフルだ。

 筆者がバルザックやモームや池田満寿夫を読んだりして、妙にインテリなのも面白い。僕とは相当な議論になるだろうけれど。

 西田さんが、「布団の中でケラケラ笑いながら読んだ」というのも、宜なるかな。

 まあ、これもある意味「大人」の世界だ。

 

 見慣れぬ名前の中で、あ、と思った名前があった。菜摘ひかるだ。学生時代、この人のエッセイは読んだ。面白かったなあ、あれは。そうか。そこで繋がるか。

 

 

 西田さんの結びの文章を、そして冒頭の磨りガラスの描写を眺めてみて、なんとなく、わかったような気がする。

 少女時代に内面に抱え込んだ何か、と、それを宥め、いつか解放してくれるかもしれない「大人」。

 直接関係があるわけでもないだろうが、そこにちくま文庫がぴったりはまったのだろう。

 

油断すると磨りガラスは分厚くなって迷宮を作り上げ、嫌な音は増幅する。直接外を見ることがなかなか叶わないから、わたしは読むのだろう。外へ、街へ、内へ。次はどれを持って行こうかと迷う、迷える幸せを、クリーム色の彼らが後押しする。これからも、寄り添ってね。

 

 

 

 さて、僕ももうちょい、ちくま文庫に向き合ってみるかな。

 

 

 

 

 

※1 最後まで読んだだけで、理解したとは言っていない。