モノクローム映画である。ソ連時代の閉塞した空気を出したかったのか、それはそれで効果は出ている。だが疲れる。二次元画像の認識は色と形である。色がなければ情報量が各段に少ないから、脳がそれを補うことになる。したがって疲れる。
フィルム映画の時代なら、白黒フィルムは逆に高価であったというし、撮影、現像、映写の技術も十分に継承されていなかったと聞くが、デジタルの今はそんなことは関係ないのだろう。解説を見ると、この時代(1960年代)のソ連映画は白黒が主流であったからだという。
まず、この作品が今のロシアで製作されたことに驚く。先日見た「白い牛のバラード」(イラン映画)は本国イランでは上映禁止になっているという。現代ロシアでは、抑圧されたソ連時代は過去の遺物であって、表現の自由も思想の自由も保障されているということなのだろうか。ウクライナ侵攻以来、徹底的な報道規制を行っている(と言われている)現下のロシアを見るにつけ、この映画が普通に上映されている日本に暮らしていることに感謝するほかない。
この映画はノボチェルカッスク事件を題材にしている、といってもこの事件のことはこの映画で初めて知った。フルシチョフ時代の1962年に起きた、ウクライナにほど近いノボチェルカッスクの機関車製造工場で起きた労働者ストライキ弾圧事件である。共産党政権下で労働者が蜂起することが驚きであるし、その契機となったのが、物価上昇、賃金引き下げというのだから何をか言わん。社会主義経済の破綻はすでにこの時代に見えていたということか。
物語の中で、党幹部から発砲も躊躇するなと命じられた軍の将校が、「軍は国民を守るためにあるのであって、民衆に向けて発砲することは任務ではない」と抗弁する場面がある。ミャンマー国軍の幹部に聞かせてやりたい台詞ではないか。デモ隊への発砲は、KGBの狙撃が発端であり、兵隊は最初から民衆を弾圧したわけではない。むしろデモ隊の封鎖戦突破を助ける動きすらあった。その意味で、この作品の監督アンドレイ・コンチャロフスキーは、軍を単なる政権の暴力装置としてのみとらえているわけではなく、社会主義建設の一員として描いていると受け止めた。
主人公のリューダは、熱心な共産党員で市の政務課長を務めるシングルマザーである。労働者の蜂起を最初は否定的にとらえ、首謀者は全員逮捕せよと主張する強硬派であった。ところが、党幹部の情報統制、民衆弾圧の姿勢に疑問が生じ、くわえて騒乱に巻き込まれた娘の安否を確かめる過程で、共産党への忠義が揺らいでいく。そこでつぶやく言葉がまた皮肉である。「共産主義以外に何を信じればいいのか・・」「スターリンがいないとうまくいかない」。
いやでも現下のウクライナ侵攻を思わずにいられない。共産主義を徹底すると圧政に行き着くし、強権政治は新たなスターリンを生み出している。
2020年の製作。ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞、シカゴ国際映画祭監督賞、第93回米アカデミー賞国際長編映画賞(今回ドライブ・マイ・カーが受賞した部門だ)等を受賞している。
コンチャロフスキー監督は1937年生まれの84歳、主演のユリア・ビソツカヤはその夫人であり、コンチャロフスキー作品の中心的存在である由。どうでもいいことだが、年齢差は35歳。ちなみにユリアはノボチェルカッスク生まれ、というのは重要な話。
繰り返しになるが、この映画が現代ロシアで作られたことに感嘆、このタイミングでの上映はおそらく関係者の強い意図が働いたものと思う。