人は歳を重ねても、本質的には何も変わらない。
誰しもが自己利益を優先し、欲に忠実で、自分の信じる「正義」を疑わない。
物語の中で悪を打ち倒す正義の姿に心を動かされるのも、
結局は本能の延長にすぎない。
外見や年齢が“成長”を演出しても、
中身は幼い衝動のまま、社会という仮面の下でうごめいている。
「大人になる」とは、建前と現実のズレを知ること
教育はいつも理想を語る。
「思いやりを持とう」「正義を貫こう」「優しく生きよう」。
だが社会に出ると、現実はその真逆を突きつけてくる。
優しさは利用され、正義は疎まれ、
理想を口にする者は「青臭い」と笑われる。
人はその矛盾の中で打ちのめされ、絶望し、
やがて気づく。
善悪とは、地面の上で争うものではなく、上から見下ろすものなのだと。
そこからようやく、“大人”が始まる。
波に逆らうのではなく、波に乗る
社会という波は、誰か一人の意志で変えられるものではない。
逆らえば沈み、叫べばかき消される。
だからこそ、“波に乗る”ことを選ぶ。
それは同調でも諦めでもなく、理解だ。
人間の滑稽さを知りながら、あえて溶け込む。
その中で自分の居場所を見つけ、静かに呼吸を合わせる。
老子は「上善は水のごとし」と言った。
水は争わず、形を変えながら岩をも削る。
波に乗るとは、まさにその柔らかくも強い生き方だ。
教育の建前にも、意味がある
教育は偽善ではない。
むしろ、理想を信じさせることで、
その理想が壊れる痛みを通して人を“成熟”へ導く。
理想を信じた人ほど、現実に深く傷つく。
だがその痛みこそが、「現実の中に理想を置く場所」を教えてくれる。
教育は、大人になるための最初の幻想なのだ。
理想は、語るものではなく、内に秘めるもの
真に成熟した人は、理想を声高に語らない。
社会の矛盾を責めもせず、
ただ静かに観察し、流れの中で生き方を調整する。
それは理想を捨てたのではなく、
理想を沈黙の中に生かしている状態。
外の世界では柔らかく、
内側では鋭く真実を見つめる。
それが、“大人”という名の生存術だ。
結びに
建前と理想を教える教育があるからこそ、
人は現実に傷つき、そして学ぶ。
だからこそ、教育が語る「きれいごと」は無意味ではない。
理想に夢を見て、現実に裏切られ、
それでも波の上で笑う――
その姿こそ、人間の成熟の証だ。