宋子安・『東渓試茶録』3序章②
前回宋子安・東渓試茶録試録2(著者宋子安)の序章①の続きです。
【原文】(青字)
独北苑连属诸山者最胜①,北苑前枕溪流,比涉数里,茶皆气何弇②然、色浊,味尤薄恶,况其远者乎?亦犹橘过淮为枳也。近蔡公③作「茶录」亦云,隔溪诸山,虽及时加意制造,色味皆重矣。今北苑焙,风气亦殊④,先春朝隮常雨,霁则雾露昏蒸,昼午犹寒,故茶宜之。茶宜高山之阴,而喜日阳之早,自北苑凤山⑤南,直苦竹园头东南,属张坑头,皆高远先阳处,岁发常早,芽极肥乳,非民间所比。
【試訳】
閩地の茶―「建茶」については、北苑の鳳凰山およびその周辺諸山の茶が最も優れている。北苑茶園は渓流の傍にある。そこから数里も離れると茶の味が大分変り、色が悪く、味も落ちる。北苑から更に遠方となるととても北苑のものには及ばない。昔の諺のように淮南の橘(たちばな)を淮北へ移せば枳(からたち)となる(橘過淮為枳也)と同じことである。蔡公2が著した『茶録』には次のようにある。「北苑鳳凰山の川を隔て向かい側の諸山でも、例えば適切な時期に注意を払って茶を作っているが、その味は濃厚すぎて、北苑の茶に及ばない。」北苑焙茶場の環境は、春先に朝霧と雨が多く、晴天も霧が立ち込め、空気中の水蒸気の量が多いため、茶の栽培に最適である。茶樹の生育には高山の北面が適しており、また朝日が当たり場所を好む。北苑鳳山南の「苦竹園」山頂および東南の「張坑」山頂は海抜が高く、日当たりがよいため、毎年芽吹きが早く、新芽の質は肥えて柔らかい。民間茶園では北苑のような良質な茶を作るのはなかなか難しい。
【注】
① 「独北苑連属諸山者最勝」。蔡襄の『茶録』にも「茶味主于甘滑。惟北苑連属諸山者最勝」の記述がある。
② 弇:拼音はyǎn。「覆う」との意味。ここでは意味不明。
③ 蔡公:蔡襄(さいじょう)のこと。1012 - 1067年。北宋の書家・文人。字は君謨。福建省莆田市仙游県出身。『茶録』の著者として知られている。
④ 「今北苑焙,风气亦殊」:”風氣“の意味は北苑焙茶の風味を指すのか、北苑周辺の気候を指すのか不明のため、訳出しをしていない。
⑤ 『東渓試茶録』「は「鳳凰山」と「鳳山」を混用している。建甌市の地図を見ると鳳凰山の西に「鳳山」があり、そこから「北苑御焙茶遺跡」までは大変近い。「鳳山」は「鳳凰山」の一峰ではないかと推測する。「鳳山」の麓に「建甌市茶廠」、「鳳山茶場」など製茶工場がある。「北閩水仙」という商品は建甌市茶廠の定番商品でパッケージに中国英語両方の解説があり、海外マーケットを意識して作られている閩北水仙茶だ。
解釈:
『東渓試茶録』の今回の内容は、宋子安が蔡襄の『茶録』を引用しながら、北苑茶生育環境の良さを述べている。それは北苑の茶園は山頂にあり、そこの気候は茶樹の生育に最適だと強調する。鳳凰山にある北苑の茶園は春になると山霧が立ち込め、良く育てられた新芽が山頂一面に輝き、まさに天空茶園ではないかと想像したくなる。そこでお茶摘みをしている人達はもしかして山民族の人たちではないかとさらに千二百前の風景を頭の中で描く。当時建州からの貢茶は「官焙」場と「私焙」場があり、「官焙」場は「北苑御焙」場と呼び、「私焙」は民間の製茶場である。北苑貢茶は官焙だけではなく「私焙」場で作られている茶も良いものなら「貢茶」として朝廷に献上していた。
建甌市東峰鎮にある建甌市茶廠および鳳山茶場の位置。宋・北苑御茶園遺跡の場所に建築されている。
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1970年代~80年代海外向けの宜興紫泥壺。「請飲中国烏龍茶」の文字が彫られており、日本市場では漢字なら通じると思っていただろうか。
日本の烏龍茶ブームは1970年前後からすこしずつ始まり、その後「痩せるお茶」として日本市場に定着した。この「閩北水仙」のパッケージは「閩北」のピンイン「Minbei shuixian」も印字され、海外用の商品であることがわかる。東峰鎮「建甌市茶廠」の商品。
来月茶会の時、『東渓試茶録』の名残茶として皆で一緒に飲みたいと思っている。