去年暮れに取材された記事が出来てきました。
読んでいると昔のことをまた思い出したりして、
とても懐かしい気持ちになりましたよ。
子供時代、思春期、20代、30代の思い出がもう、
もう、みんな嘘のように、
今、私は普通のおばちゃんです。
社会的にも、自分のアイデンティティも。
すっかり迷いなくもう、すっかりおばちゃんです。
中性的ではあるけれど、苦悩はしていない。
過去の人生も今の雰囲気も全てを、
自分の個性として気に入ってもいます。
記事を読みながら本当に懐かしく思い出される、
若かりし日々。
そうだ、私は人生の中の20年ほど、
誰からも疑われず男性として生きていた。
それはそれでとてもしっくりきたし、
決して居心地は悪くなかった。
それが当たり前だった。
そしてさらにそれよりもっと昔、
子供の頃、私は、女児だった。
確かに女の子として生まれた。
人からは女の子として扱われていたし、
実際身体も五体満足の女の子で、
戸籍も女で、染色体もXX。
ただ自分では自分が女の子だという気がせず、
落ち着かない気持ちで、
何らかの救いを求め続けていた。
つまり私は女から男への性転換者で、さらに、
中年になってから再び女として生きる人生を選択した
往復性転換者である。
誤診とかそういうことではない。
なんとなくわかって頂けると有難いのだけど。
そもそも、そう思われることを恐れて、
一部を除いた過去の知人とも連絡を経ち、
LGBTの活動からもフェードアウトし、
意図的に行方不明になった。
私を誤解されることは、
私だけの問題ではなかったから。
このあとに続く「性別変更を切実に必要とする人たち」にとって不利益になる可能性があると思ったから。
この日本で、性転換が、「当事者にとって必要なこと」と公に認められるまでの長い道のりと、あの時代の絶望感といったらもう。
トランスジェンダーに対して、闇でない治療や戸籍の変更が当たり前になる、こんな今のような時代が、私が生きているうちに訪れるなんて、全く想像も出来なかった。
日本、ようやくここまで来れたのに。
私のような例があるのなら、もっと慎重にならないとなあ、なんて世間に思われでもしたら、台無しだ。
世間も専門家も慎重すぎるほど十分に慎重だったし、
どれだけ慎重にしたって、大多数から外れる症例は「稀に」起こり得る。性同一性障害に限ったことではない。
さらに稀には、過去の自分の決断や、その時確かに救おうとしてくれた人たちへの恩まで棚に上げて「この治療は間違いだった」と騒ぎ立てる人もあるかもしれない。
悪意はなくても、本人が自分のことを被害者だと感じてそれを吹聴しまうような例すらあるかもしれない。(そして、そんな人とは一緒にされたくないなあ、とも思っている)
それは、それ。
そんな人は、いる。
そんなことは、何の治療にでも、ある!
そんな例に出くわした時、対応する側も (訴えている側の本人もきっと) とてもしんどいけれど、
それはその個人の一例であって、性別変更という支援自体が問題であるわけでは決してない。
後に世にもまれな「往復性転換者」となった私でさえ、
思春期に自分の自認する性として生きられたことは、
あれは確かに「救い」だった。
取材して下さった吉村智樹さん、
とてもわかりやすく読みやすく書いて下さった。
ただ文字制限や言葉を選んで大多数の人の目に触れる記事では伝えきれない部分もあると思う。
私自身のブログと併せて読んで頂けると、
より伝わるかなーと、思ったりしている。
Twitterに行ったきりでブログさぼりがちだったけれど、
また色んなことを自分の言葉でも書いていくわ。