あの日から何日過ぎても、リビングの彼が横になっていた場所に面影が残っていた。

ふと時が止まるように、すべてのものが一時停止するような瞬間、そこに彼の残像が浮かんで、会えば会うほどに忘れられなくなって、彼の残像に囚われていくのが宿命なのだと思っていた。それがこの恋の代償なのだと…。

どんなに想っても繋がることのない二人の気持ちは、ぎりぎり「身体の繋がり」だけで繋がっている。それは決して美しい関係ではないことはわかっている。そんなことは二人ともよく分かっているのだ。そして誰も傷つけずに済むような関係でないこともよく分かっている。しかし、この恋がなければ私は生きていることさえままならないほどに疲弊していた。仕事をしていない私はまるで屍のようだ。生きがいも理由も見失いそうな時に、彼がそっと教えてくれるのだ。「子供、生きる理由なんてそれだけでいいんじゃない?」と。そう、目の前でおどけて見せる子供の宿題を見ながら、洗濯物をたたみながら、それをしている理由が見えなくなっているのだ。子供が邪魔だなんて思わない。ただいるのが普通で空気のように当たり前の景色になっているのだ。明らかに子供から私は愛されている。物わかりのいい息子が「僕は誰よりママが大好きだよ」と体中で表現している。寝ている顔も怒られて泣いている顔も、物知り自慢する顔も、すべてが「ママが好き」を具現化している最終形態なのだ。それでも…母であり女である私がそれ以上を求めてしまう。

また今日も短いlineのやり取りだけで終わっていく。伝えたいことはたくさんあるのに、どうしても短いlineだけで気持ちを誤魔化すように、淡白な感情表現しかできない。好きとか嫌いとかそんな感情じゃない、説明するならまさにそれは失楽園なのだ。失った時間を取り戻すように、30年の空白を埋めていくように彼と過ごしたい。

 

もしも30年前のあの日、母の手ではなくお互いの理由で別れた結末だったなら、どんなに幸せだっただろう。せめてどちらかがどちらかを、これでもかというくらい嫌いになって別れていたのなら、もし再開することがあっても、もっと気楽な友達としての関係で隠れることなく会うことのできる関係だったはずだ。過去にケリをつけてきた恋人たちは、互いに何度も喧嘩をして別れてきた。その人たちを思い出すことがあっても、こんな風に切なくなることなんてないのだ。そう、私たちは互いに喧嘩をするほどお互いを知らないままなのだ。だから喧嘩にはならない、喧嘩すればきっと簡単に終わる関係とさえ思っている。

 

よく歌えるアプリで遊んでいる。どの曲を歌う時も彼が思い浮かぶ。彼の顔しか浮かばないのだ。私は彼以外に甘えるだけの恋をすることをやめた。彼の前以外では女を捨てた。ただの一児の母を演じた。現実いらないのだ。彼以外を求めていないのだから。そして今日も歌う。恋の歌を。