人につらく当たった
意地悪をした
仕事でミスをした
それは一つの出来事に過ぎないのですが
自己肯定感の高い人
低い人でその出来事に対する"意味づけ"が変わってきます
例えば
自己肯定感が高い場合
あ、やってしまった
ちょっと心に余裕がなかったな
謝ろう
次から気をつけよう
で済むかもしれない
でも自己肯定感が低い場合
何て自分はダメなんだろう
なんてひどい人なんだろう
何をやってもダメだ
私は本当にどうしようもない、、、
そうやってどんどん自分を責めていってしまう
それはまさに以前の私なのですが笑
とにかく何かにつけて自分を責めていました
責めるのをやめよう、やめようと思ってもやめられない
どうしても責めてしまう
そこには
人につらく当たってはいけない
暴言を吐いてはいけない
意地悪をしてはいけない
ミスをしてはいけない
という固定観念があります
それは今までの環境や経験によって得られたと考えられますが
宇宙的に見るとそこにいい、悪いはありません
(だからといってやっていいということではありません)
もう一つは
"私はダメだ"という前提があるということ
実はこれがとても厄介です
まず
前提が
"私はダメな人間"
だから何をやっても結局
ダメな人間という結論になるように自分を持っていきます
この世は幻想の世界
すべては自分の内側が創り出しています
自分は何をやってもダメ
どうせ自分はこの程度
それが前提なら
それに見合った現実が創られます
そして
ほら、やっぱりね
と自分を納得させるわけです
本当に単純でシンプル
それに気づいたとしても
それが無意識の部分にあるので変えるのがなかなか難しい
でもこの難しい、すら固定観念
例えば
自転車を初めて乗るとして
難しいと思っていたとしても
途中でコツを掴むと
あれ?もしかしていけるんじゃないか
と思う瞬間があると思います
そうするとなんだ、こんな簡単なんだ!
そう気づき、実際簡単に乗れるようになる
これは自転車だけでなく
どんなことでも言えます
人によってそれぞれ変化のスピードは違うので
比べる意味はないのですが
人生は簡単に変わると思うだけで変わるんだなと理解するだけで違ってきます
そして、自己肯定感が低い
どうしても自分を責めてしまう場合
その裏には
本当は認めて欲しい
こんな自分でもいいと言って欲しいという切実な思いがないでしょうか
もしかしたら
小さい頃、親に話を聞いてもらえなかった
抱きしめてもらえなかった
そんなことがあったのかもしれません
こんな私でもいいんだよと
そこにいてくれるだけでいいんだよと言って欲しかったのではないでしょうか
それは誰に?
親?友だち?恋人?
それはおそらく自分自身に、です
ついつい誰かに尽くしてしまう
人に合わせてしまう
嫌だけど嫌だと言えない
その奥には
こんな自分じゃダメだ
もっと素晴らしい自分にならなければ
という思いはないでしょうか
でも本当は
それでもいいんだよ
自分が嫌いだと、ダメだと思う部分があってもいいんだよと認めて欲しいのではないでしょうか
感情は勝手に湧いてきます
私たちはその感情を感じるために生まれてきたといいます
私たちが生まれてくる前にいた世界は
愛だけでできていて
ネガティブな感情を感じることも
どんな感情なのか知ることもできないのだそうです
それを感じるために生まれてきた
それにいい、悪いはなく
でも苦しい、嫌だと思うなら
これはもういらないな、ありがとうと空に返してしまえばいいのです
人を責めてしまうこともある
憎んでしまうこともある
その時の自分は何を感じていたか
どう感じていたか
何と言いたかったか
寄り添ってあげると良いです
そしてその頃の自分が言いたかったことをその場で言ってみる
どんな暴言でも何でも口に出してみる
または、紙に書いてみる
涙が出るかもしれない
苦しい、悔しいという思いが出てくるかもしれない
でも、それが出てきたということは
浄化できるということ
手放せるということ
だからその感情を感じ切って出してみる
そして、今まで我慢してきたね
よくやってきた、頑張ってきた
なかなかやるじゃん、自分
そう言ってあげる
自分自身を大切にすること
自分自身で生きること
それが何よりも大切です
自分を大切にするから愛が溢れる
人も大切にできる
人に手を差し伸べることもできる
まずは自分から
私のブログを読んで
違和感だったり、共感だったり
感じたことがあれば
自分の内側に聴いてみてください
どう感じるのか
どうしてそう感じるのか
その感情の中にはどんな価値観があるのか
それは必要か、もういらないか
人それぞれ生きてる世界があります
それは自分自身の世界です
だから人の世界に答えはないのです
人は皆自分の人生を生きるために生まれてきました