贄巫女(にえひめ)            ⑥
 
 
    キョーコは「えっ?」と声に出しかけた。
    出会ったばかりのつい先程、豊かではない一人旅をしているからと言ったばかりなのに、レンは何を欲しいと言い出したか、不思議に思いながらもキョーコは聞き耳をたてた。
 
「何を?    私はたいしたものは持ってないわよ」
 
「俺の食事だ。餓えているわけではないが、暫く振りに会えた人間の血だ。聖女であればなお旨いと聞いた。……匂いだけでも…甘くてたまらない……。少しばかり恵んでくれないか?」
 
    口調は頼んでいるようだが、その目は獲物を狙うようにキョーコを見ていた。
   レンは目を細めながらキョーコの目を見つめ、暗示をかけようとしたが従う気配が見えない。
    レンの気配が、先程暗闇から現れた時と同じように、ヒヤリとした空気を纏ってキョーコを見つめた。
 
「あなたの……食事?」
 
    キョーコはその言葉の意味を、まさか……と思いながら、驚きながらもなぜか動けなかった。
    それはキョーコの僅かな気の弛み……。
 
    レンがキョーコに近付いて来たのも、元はキョーコの血の匂いを嗅いで来たのだ。
 
    レンはキョーコに暗示がかからないと分かると舌打ちしたが、油断している女相手なら、力で押さえ込めば首筋にヤイバを立てることなどたいしたことはないと、キョーコに手を伸ばした。
    しかし本当に油断していたのはレンで、キョーコを獲物ととらえてその肩に手を掛けようとした。だが、キョーコの身体から滲み出るような柔らかな光が現れ、その光に触れたレンの手は、バシッ!…と音を立てるように弾かれてしまった。
 
「なっ、何が…!?    先程まで光など無かったのに!   まさか、神の加護か!?」
 
    キョーコから甘い血の匂いがしていれば、ご馳走であると同時に簡単には手に入らぬと思って手を出すべきだった。
    レンの弾かれた手は、信者が心を込めて信心する御守りに触れた時と同じだった。手は痺れ、触れた処は赤くなり、人間の軽い火傷に近い状態だった。
     それでもバンパイアの不死とも言える再生力で、レンの手はゆっくりと元に戻っていった。
 
「神の加護…ですか?」
 
   キョーコにはその意味がわかっていないようだった。昔長老に巫女の素質があるとは言われたが、贄巫女としての長命以外、微かに天の声が感じられるぐらいだ。
   キョーコには特定の神に信心して祈りを捧げたことはない。
   キョーコが日々、祈りを捧げるのは、天が全てを見下ろす小さな存在だということ。
 
「私が祈るのは、全てを見守る天に…人は必死に生きていることを伝えて、呆れてもいいから、見捨てずにいて欲しいと、祈るだけです……。神に特別に護られるほどの存在ではないです」
 
    キョーコは両足を地に着けて、人として神がいつまでも見守って欲しいとだけ、祈りを捧げる聖なる乙女の姿だった。
    レンが肩に手をかけようとしたのも、強く弾かれたことで、レンが驚きはしたものの、何が起こったかよくわかっていない感じだ。
 
    キョーコはレンを先ほどと同じように見つめるが、「私の血が特別な訳などないです」と苦笑して、神の加護などあり得ないと首を振った。
 
     しかし、レンにはこの血の匂い、そしてキョーコを魔から護る柔らかな光が気のせいとは思えなかった。
 
 
 
 
 
   レンは 久し振りの血が獲られると思ったのに空振りに終わり、興を削がれたとばかりに、キョーコから離れて空の見える場所に移って溜息を吐いた。
 
「あいつはなんだ?」
 
   匂いに誘われ、バンパイアとしては久し振りの食事になると思えば、身体から発する光にキョーコ自身も気付いていない。
 
「今までが運が良くて、気が付かなかっただけか?」
 
    人も魔族も少なくなり、キョーコのように護られる者も危険に遇わなければ、護られていることにさえ気付かない。だが俺のように、魔族だからこそ危険をおかしてまで、護られた魅惑の血に引き寄せられてしまう両刃のような誘惑から逃れられない。
 
「キョーコは…あのような無防備では、俺のように諦めることを止めない相手では、どうなるか……」
 
    レンは、気が付けばキョーコの身の心配をしている自分に苦笑した。
    レンとしても、久しぶりの人間の血を…それも聖なる乙女の血というご馳走にありつけると思ったが、キョーコという女とその血は…それほど簡単に手に入らぬと、理解した。
    レンには、キョーコからは普通にしていれば聖女としての強い光りは感じられなかったが、甘く香る血の匂いと、柔らかな内から放たれる光が身体を護りを、ただの人間だとは思えなかった。
 
    ただそれでも………今夜の巡り合わせだけとは思えない感覚に、キョーコの甘く香る血の匂い以外の何かに、離れがたくて天を見上げた。
 
「あやつはなんだ?   キョーコという女は何かを成すべき為に天命を受けた人間か?」
 
    住んでいた村で、ただ一人生き残った少女…。そしてその存在を護る柔らかな光。
 
    レンは、この冷めゆく世界で出逢ってしまったことに、ただこの世界に仲間もなくひとりになってしまった自分との巡り合わせが、何も意味が無いとは思えなかった。
 
 
                           ≪つづく≫