朝おきて

顔をあらって

トイレをすませて

白湯をのんで

お祈りをして

お掃除をして

お弁当つくって

朝ごはんつくって

コーヒーをのんで

お布団畳んで

薪ストーブに火を入れて


わたしの朝の日課


ひとそれぞれに

くりかえし 過ぎゆく 日課がある


いつのまにか 毎日の日課は こなすもので、

 わたしの ハートの声なんて あたりまえに無視してるけどそんな自分にさえ気づかない。


誰かの機嫌をそこなわないために...とか。 しなければならない決まりだから...とか。

そんな理由で ハートのリズムを無視することが当たり前になっていた。


しなければならないなんて だれがきめたのか。

何が理由なのかとか そんなことは重要ではなく。


そのような 思い込みが どれだけ 自分を縛りつけていたかに 

自分の中のフィーリングが深く納得し気づいた。

そこに、大きな奇跡が あるのです。


バーストラウマと、意識的に向き合い半年はすぎた。

そして さまざまな出来事は さらに、わたしに気づきと深い癒しをあたえてくれている。


そんなことを ぼんやりと 考えながら、それから少し調子の悪さを抱えながら

娘を保育園におくるために、車を走らせた。



すると 途中どうしてもたちどまりたくなった。

いつもなら、そんなハートの声も、娘の保育園に遅れてしまう。。など

の思考が優先し、無視していた。

でもこの日、わたしは自然に、駐車場をみつけそして停車していた。

そしてハートに手をあてて、ハートの声によりそった。


そしたら さきほどから いくつも着信音をならしていた携帯に手がのびた。

そして みたのは、LINEのあるグループに投稿されていた、ある方からの

お祈りのお願いだった。

車の事故にあったこと。身体の不調がつづき、この事故によりさらに悪化していることなど、がかかれ、皆からの祈りを願う投稿だった。

わたしは すぐさま、祈った。

その方が 元気になる過程をいつくしめるように。

ありありと、その方の元気な姿をイメージし、祈った。

すると あっという間に 私自身も元気をとりもどしていた。

これにはびっくりした、乱れていた不整脈がぴたっとやんでいた。


さて 出発するか♪


と、車を走らせた。


娘を保育園に送り、わたしは一人になった。

午前中、下の息子とまってるよ、と相方がいってくれているので、

ひさしぶりの一人タイムというわけだ。

こどもができてからめっきり、一人タイムの使い方も手持無沙汰で

おちつかなくて わからなくなってしまったわたしでしたが、

今日はなんだか うきうきしている。

まず、図書館にいくことにした。

自分でも不思議なくらい、自由 という感覚がわたしの中で増しているという実感があった。


自由とは、親の保護下にあるときは特に、その監視下のようなところからの反発心のようなものがあって、わたしはいままで、そんな感覚の自由から離れられないでいたようだ。


いま感じている自由の領域とは、自分に正直であり 自分の内なる声を無視しない。とにかく自分を愛で満たすためになんでもするという 自由である。


しばらく図書館ですごしたら、「やっぱり あそこへいこう」と、とあるお店へあしをむけました。


そこでは、素敵な出会いもありました。

わたしは 目の前のかたと 深い深い こころの話、 意識の話 とかをすることが大好きで、それはかれこれ、20年ほど前にその喜びをしってからというものの、そのような時間をすごせると、自分自身が必要とされ、認めてもらえている実感があった。

そう。わたしは 自分を認めてもらいたい。という思いがとてもつよかった。

自分で自分を受け入れていないのに、周りのひとに認めてもらおうとしてきたのです。

そのことさえ、最近まで気づいていなかったのですけど。


いつのまにか長い時間そこですごしており、相方との約束の時間をすぎていました。

それでも、わたしの表面的な領域は満足しているのですが、どんどん 心臓があやうくなっていることが自分でもわかりました。


車にもどり、新しい出会いへの気持ちの興奮のままに走り続けてしまう、いつものパターンで車を走らせていました。

そして、帰路中、わたしのもつ不整脈のなかでも、強烈な頻脈発作をおこしてしまいました。


あぁぁぁぁぁ。。。。

わかっていたのに。

あぁ なぜあのとき休まなかったんだろ。。。

いつもそうだ。


とにかく、駐車場をさがそう。

そうして近くの空き地に車を停めた。

この発作がおこると、だいたい いつも とても苦しくて 意識朦朧としてしまう。

けれど、この日は妙に 落ち着き、 どこか 笑ってしまうような 自分自身のなかの、新しいそんな領域を感じていました。

それでも、もう、しばらくで自宅だし、自宅にはよしくんもいる。

電話をしようと。相方よしくんに電話をしました。

そして、今私がいる場所へきてくれるといって電話をきりました。

そこから彼が到着するまで10分ほどありましたが、その間、わたしは 身体をよこたえながら、車の天井をみていました。

そうだな。こうやって、昔はよく救急車にのったものだ。と思い出すと、とたんに

「いやだ!もう救急車は!」などと ひょっこり恐れが顔をだす。

そして わたしは いつもの朝の日課のように わたしにとっての聖なる存在をハートに呼び招く。そうすると、心臓は大丈夫 と、なぜか、ものすごい確信をともなった感覚が湧く。

あ。。この感じ、はじめてだな。とわたしは感じている。

そして、 あぁ。今日は新しい出会いのかたに 愛を分かち合いたくていたけれど

わたしの ハート 心臓 に愛が愛が、ないのよ。

だからね。わたし、愛を分かち合うなんて いまのわたしに できないのよ。

だって、愛がないんだもの。

そんなことを ありありと 感じていた。

だから 心臓も こうして 痙攣してるんだよ。

エネルギー的な領域からのサインだよ。


そんなことを感じていると

身体の反応(頻脈発作)を客観的に感じている 自分という意識 があり

いままでであらば、 どうしても そこに恐れが連動し 身体全体が緊張するのですが、それがほとんどみあたらないという状態になっているのです。

なんだか すごいな わたし、 ほんとに よく ここまでこれたなぁ と感慨深い思いもわいてきたり。

あぁ いままでは この心臓の動きさえも、自分でなんとかしなければ とおもっていたのだなぁ!! どこまで コントロール可能だとおもっているの?わたし?

と、自分の傲慢さにも 茫然としていました。


そして よし君が到着。

彼がわたしのハートに手をあててくれている。

あぁ。。。 もう やだな。 と弱音を吐くわたし。


身体でおきていることは 自動的だから 心臓によりそうだけだよ

とよし君。


そして、 ある瞬間にパシッと 頻脈発作は おさまったのでした。


それから、実は この発作、おこると、そのあと、身体中だるく、次の日まで持ち越すことがほとんどなのですが、 身体がかるいではありませんか。。。

そして。 なんと、それから 2週間以上ずっとでていた不整脈がでていないのです。


「わたしのハートを 愛でみたすのです。わたしのハートが愛で満たされたらしぜんとあふれだすものなのですから。」という声がきこえる。


わたしは、この発作の最中にさまざまな気づきを得ることができました。

そして、もう、わたしには おてあげ!!と、わたしは はじめて 自分でできないことがあることを腹の底から納得して おてあげ!っといえていました。


そして朝にヘルプのメールがあったかたへの祈りで体験した、集合の祈りのパワフルさを実感していたので、

その日の夜、あるグループの集合の祈りに参加することをおもいつきました。

自分のハートが愛で満たされ 不整脈が癒され、愛を分かち合うことができるようになった という私をイメージして、祈りました。

その祈りの最中、どうしてもピアノがひきたくなりひきました。

身体が癒されることも 心がいやされることも すべて自動的におこるんだ。

わたしがどうこうしようとしなくても、すべておこるようになっているんだ。

意図を込め、愛にみたされていく心臓をイメージしました。

わたし一人の祈りでは これほどのパワフルさを体験することができません。

なんともいえない 安心感 とてつもない 愛のあたたかさを ハートが抱きしめていました。 ハートがみたされそれは自然とあふれだし、指先から 鍵盤をたたき音を奏で始めていました。

その音は いままで 聞いたことがないような 音でした。

私自身の リズムが 誕生した夜でした。

そのリズムは とってもわかりやすいリズムでした。

いままでは 多くのミュージシャンに わかりにくいと いわれてきた わたしのリズム。

なぜなのか ずっとわからなかった。

いまなら わかる。

わたしは わたしを見失っていたの。

いま、ちゃんと 自分とともに生きているよ。


わたしは、 愛を分かち合いたい 

そのためにうまれてきたんだ!!



わたしの サウンドヒーリングに興味のある方

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お問い合わせは 09064734324えんどうまで