3月に入り、春が待ち遠しい時期になりました。
そして、この2週間ほど、私の中では、「許す」ということが、自然と発生してきているようだ。
311からちょうど1年をむかえたこの時期に、私の中で、長い間、反射的に無理するようになっている部分とか、無意識に、自分の気持ちを無視して無理している部分とか、
いろんなところを、いろんな形で見せてもらう機会がありました。
それは、ある人とのやり取りの中で、怒りや悲しみを感じた時だったり、
パートナーの仕事をお手伝いしている時だったり、
娘と2人で過ごしている時だったり。
その中で、共通して、意識されたのが、わたしは、何かしらの条件付けの中で、
無理をしたり、自分のフィーリングを無視して突っ走っている時があるということでした。
無意識に無理をしている自分も、相手を意地悪な人!だとか、性格を疑う!!
と感じた場合でも、やはりそれは、自分の中に、あった、ある条件付け(こだわり)が影響していることが、体験として、はっきりわかった。
最近、わたしは、悲しかったり怒りが芽生えたりすると、それを感じつくせるように
・・・と、自分が身近に感じる聖なる存在にお願いするようにしています。
どんな条件付けや、昔の痛い思い出が、わたしを縛りつけてきたのかを、
ひとつひとつ片づけていく、という地道な内的作業をしていた時期もありますが、
今は、この方法が、とってもしっくりくる。
そして・・・、聖なる存在に託しながら、湧いてくる感情を味わい、ただそのままその感情に何の判断も加えずに、感じつくしていくと、ある時、ふと、それまでは意識できていなかった、私の中のこだわりが、不思議と・・忽然と消えているのです。
そして、消えてゆくと共に、どんなところにこだわっていたのかが、意識できるのです。
そして、そのあとには、必ず、それを証明するかのような、現実的な出来事が
体験としてもたらさられます。
いやな奴!!と思っていたあの人の、素敵な素敵なところに出逢い、
私の中の苦しみを、ただ、見せていてくれただけであることに、頭で理解するのではなくて、体験的に気付くのです。
それから、311は、わたしにとって、今、私が生きている社会が、どのように成り立っていて、その成り立ちにわたしがどれだけ影響されてきたのかを、知る、大きな大きなきっかけでした。
人間として、この地球で、どのように生きていくことが、動物・植物・命あるすべての存在にとっての幸せの方向なのか。
そんなことを本気で模索し始めたのは、震災より半年前くらいだったと思う。
そんな思いがあったから、震災後に明らかになった、この社会の在り方に、本当に絶望して、悲しくて仕方がない時期が長くありました。
そして、今、わたしは、許すことを、知り始めているんだな。と感じます。
すべての体験には意味がある。
許しの、先に何があるのだろう。
人は、ある部分では、想いを共感できなくても、ある部分では共感できることもある。
人は、違うからこそ個性があり、あるときにその個性がほかの人を救ったり助けることがある。
絶望と感じているとき、それを、無理して希望にかえようと無理をしなくていいんだ。
なぜなら、今、絶望と感じていることの中に、すべてがあるのだから。
その絶望を、ただただ感じつくしていけば、その先に、新しい世界が必ずまってる。
その時に、お腹から湧きおこるフィーリングが、この先の行く先を教えてくれる。
子供は、許しの天才です。
母が、感情を抑えられなくなって、ひと暴れしてしまっても、母が謝る前から、
「大丈夫だよ」と、まるごと許してくれている。
そして、わたしには、神様から与えていただいたもう一つのギフトがあって、
ピアノを弾きながら、感情を浄化できるということ。
ひたすらひたすら、ピアノを弾きながら、感情を出しつくします。
ずっとずっと泣いている時もあります。
聖なる存在にお願いして、怒りや悲しみを感じつくすお手伝いをしてもらいながらピアノを弾き続けることもあります。
今、わたしがしている、このピアノを弾き、奏でることが、わたしにとっての癒しでもある、この手段で、これから出会う、たくさんの仲間たち、今まわりにいるたくさんの仲間たちのお役に立てますよう・・・。
4/8日曜日には、長野市のまほうのしずくで、音を奏でます。
店主のカミュちゃんと、いろいろお楽しみを用意しています。
また、詳しくは、お知らせします。
感謝