北のりゆき☭遊撃インターネットのブログと小説

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 朝一番で友だちが駆けてきて、女子軍士官学校に合格していたことを知らせてくれた。
 入学手続きを終えたらもう軍人扱いで兵長になった。希望者には俸給を前借りさせてくれる。みんなに負担をかけずにすんで良かった。支給された制服を着てみんなに見せるのは、気恥ずかしかったけど嬉しい。
 これからは、寮で暮らすことになる。外出できるのは、月に一日くらいだ。五年もみんなとほとんど会えなくなる。
 入寮の前日にマーロウと二人きりで、他愛のないお話しをした。この人は優しいけど、わたしを好きってわけではない。それにわたしは、汚れているし、ひどい嘘もついている。だから、お礼しか言ってはいけない。
「あのね⋯⋯。今までありがとう」
 マーロウは、ちょっと困ったような顔をしていた。
「エステルがこのまま進んでいけば、いつか一緒に仕事ができるさ⋯⋯」
「エステルは違う世界の人になった」なんて言われなくて良かった。でも、やっぱり、さびしくて泣いてしまった。本当にまた会えるだろうか?
 ローザたちに見送られて軍士官学校の門をくぐった。
 入校式では校長から、女子士官候補生の生徒隊長に任命された。ビックリした。成績と適性で判断したって言われたけど、わたしに五十人の生徒をまとめられるだろうか? 全力を尽くそう。
 レオン・マルクス大佐が、王家の代表という立場から挨拶された。軍士官学校の講師もされている。貴族なんか大キライだけど、王族の方々は別だ。

「入校おめでとう。ここにくるまで大変な苦労があったと思う。それゆえに君たちの能力の高さには、一点の疑いもない。君たちは女性である。だからこそ期待している。
 なぜ君たちの多くは、家に押し込められ、会ったこともない者と結婚を強制されねばならないのか? それは家と結婚とが、男が女性を支配するための道具と化しているからだ。家制度と結婚制度が、男女間の不平等を助長し、性差別を支えてきた。君たちには、第二の奴隷制というべき女性差別に風穴を開けてもらいたい。
 元始、女性は太陽だった。しかし、今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く月になってしまった。今こそ女性は、太陽を取り戻さなければならない。その先達が、君たちなのだ。君たちの前に道はない。だが、君たちの後ろに道ができる。
 人間の半分は、女性ではないか! 女性が天の半分を支えているのだ! 王家と軍は、女性士官の育成にあらゆる助力を惜しまない。期待している」
 
「女だから」とか「女のくせに」とか言われ続けていた同期生のみんなは、目を輝かせたり、目を潤ませている。なかには嗚咽している子もいた。みんな、言葉にできないような苦労をしている。目の前を覆っていた霧が一瞬で晴れたような気がした。
 女子軍士官学校が開校した。
 みんなの階級は兵長なのに、わたしだけ伍長にされた。
 わたしが任命された生徒部隊の隊長は、学級委員長とは違う。学校といっても軍組織なので、同期生からなる部隊を統制する指揮官になる。命令に従わない場合は、同級生でも軍法にもとづき処罰できる。
 入校して最初に、士官学校生徒部隊の生徒隊長が持つ指揮命令権と司法権の範囲を調べた。もちろん念のためで、実際に同期生に命令することなんかないと思っていた。そう思っていたんだけど、クーデターの時に士官学校女子生徒部隊の隊長として、王宮前広場でみんなを指揮することになってしまった。
 体力では、女子は男子にかなわない。だからって男子生徒に負けっぱなしでいるわけにはいかない。運動も頑張るけど、座学で男子を圧倒しようと同期生に呼びかけた。みんな本当によく勉強した。試験問題は男子と一緒だ。いつも十位以内に女子生徒が七人か八人は入っていた。
 ⋯⋯えっと。一位は、毎回わたしだった。全教科で百点をとれば、必ず一位になれる。
 二年生の終わりには、卒業までの一般科目を全て終えてしまった。軍大学校は、士官学校を卒業して総司令部に配属されないと入校できない。十六歳では、無理らしい。でも、三年も無駄にできない。推薦していただいて、王国大学の聴講生にさせてもらった。本当なら大学一年は十九歳なので、十六歳の聴講生は史上最年少だそう⋯⋯です。
 軍士官学校は、郊外にあるので王国大学まで歩くと四十分くらいかかる。体力をつけるためにいつも走って十五分くらいで着いた。
 今までは王国大学は、男子だけが毎年千人しか入学できなかった。どれだけ優秀でも女子は、大学に入ることができない。でも、レオン様のおかげで、王国大学に百人の女子枠が設けられた。入学を家族に反対された人のために、女子寮まで建てて下さった。
 やっぱり大学では、背が小さいのに軍服を着ている女の子は目立っていたみたいだ。女子大生のお姉さんたちが、気にかけて守ってくれた。でも、戦闘訓練を受けているから、ケンカになっても負けなかったと思うけど。

 助け合ってだれも脱落することなく、わたしたち一期生は三年になった。女子軍士官学校がつぶされず、後輩が増えて嬉しい。それに悪い貴族に陥れられていたレオン様が、復権されて少将に進級し軍士官学校の校長に就任された。
 生徒部隊長の仕事や軍事実務科目の授業もある。軍士官学校と王国大学を、毎日駆け足で行ったり来たりしていた。
 そして、クーデターが起きた。
 三年生になって一カ月半、十一月十五日の早朝、緊急呼集で全生徒が校庭に集められた。教官たちが青ざめている。王宮で戦闘があり、多数の死者がでているらしい。武器庫が開かれ生徒に槍が配られた。わたしは生徒指揮官なので、槍ではなく剣を佩く。この剣を向けるのは敵にではない。
 教官に私服の女子生徒を偵察に出すことを進言し、いれられた。軍人らしくない容姿の女の子を選んで町娘の服を着せ、二人組で三組偵察に出した。
 偵察隊によると、深夜に反乱軍が王宮に侵入して戦闘になったけど、親衛隊が反撃して撃退したらしい。王宮前広場には千近い死体が並んでいるそうだ。そして反撃を指揮したのは、レオン・マルクス校長とジルベール教官らしい⋯⋯。きっとそうだ! そうに決まってる!
 校長のレオン様が不在なので、副校長に士官候補生部隊の指揮権がある。わたしは生徒指揮官なので、上官に進言する権利がある。
「指揮官! 王宮親衛隊にも相当な被害がでたことが予想されます。防御が薄くなった王宮を防衛するため、士官候補生部隊が王宮前広場に進出することを進言します」
 ダメ、全然ダメ。副校長先生は「命令がないと部隊は動かせない」と言って、動こうとしない。混乱状態で、命令が届かないのに! マルクス校長だったら、もう出撃している。今、王宮を守らなくてどうするの? でもダメだ。これ以上『進言』すると、指揮権を剥奪されてしまう。

 ようやく十八時すぎに、伝令が命令を届けてきた。
『士官候補生部隊は、全員が完全武装をもって王宮前広場に進出。王宮を死守せよ』
 持てるだけの糧食と野戦調理器具を荷車に積んで出発した。とっくに準備はできていたので、すぐに出られた。
 残念だけど野戦では、女子は男子に劣る。なので王宮前広場に到着した女子生徒部隊は、後方支援に徹した。特に野戦食を調理して配ったのは、朝からなにも食べてなかった親衛隊騎士や警備隊の兵士に喜ばれた。
 千人の士官候補生の三日分の食糧は、すぐに無くなってしまった。王都は、封鎖されたので食糧が入ってこない。でも、糧食を大量に貯蔵している所が目の前にある。
「指揮官! もう食糧がつきました。王宮内に保管されている兵糧を使用する許可を取って下さい」
 副校長の腕をつかんで王宮に引っ張った。普通は下士官が指揮官の大佐にそんなことはできない。わたしが十六歳の女の子だから大目に見られることは計算済みだ。
「王宮に許可をとりに行きましょう!」
 副校長先生は、越権行為で罰せられるのは避けたいと考えたみたいだ。
「⋯⋯ヴァンジェ伍長、王宮内の関係部署に食糧の供給を要請し、結果を報告するように。私は、ここで指揮をとる」
 とりあえず王宮に向かった。戦闘服姿で階級章と生徒証を見せてニッコリしたら、門衛の親衛隊騎士さんは簡単に王宮内に入れてくれた。
「食いもん、たすかったよ」
 そう言って笑っている。わたしが指揮している姿も見てたのかなあ。未熟なのに恥ずかしい。
 門衛さんに、総務部に行くとよいとアドバイスをもらった。まだ血の臭いがただよう薄暗い王宮の一階を、しばらくウロウロした。貴族の侍女様は、話しにくい。通りかかったメイドさんに場所をきいて、なんとかたどり着いた。
 ⋯⋯ダメ。全然お話にならない。総務部長が王族の間から出ることを許されず、責任者がいないんだって。仕方ない。五階の王族の間に行くことにした。
 王族の間の入り口を警備している親衛隊騎士たちは、門衛さんよりずっと殺気立っていた。制服に血の染みがついている人もいる。ううう⋯⋯。
 拳を胸にドンと当てる敬礼をした。若い女の子がこれをやると、滑稽に見える人もいるらしい。笑う人がいるけど、親衛隊騎士たちは、胡散臭そうにわたしを見てニコリともしない。
「し、士官候補生部隊女子生徒隊隊長、エステル・ヴァンジェ伍長です。王宮を防衛する部隊に食糧を供給する任務に関して、王宮総務部長殿にお願いがあって参りましたっ」
 頼みの綱の生徒証を差し出すと警備の親衛隊騎士が受け取って、王族の間に入っていった。はあぁ⋯⋯。
 しばらくして出てきたのは、軍士官学校で非常勤講師をしているジルベール教官だった。王女様を暗殺団から守る戦闘でついた傷跡が頬にあって男らしい。実は女子生徒にすごく人気がある。わたしは⋯恋愛なんか⋯できないけど⋯⋯。
「おう! エステルじゃないか。上から見てたぞ。食糧の配給で、大活躍だな。警備隊にも食わしてくれたな。王都警備隊には、補給部隊は無いから助かったぜ」
 再びドンと胸に拳を当てる敬礼をして、事情を説明する。
「ジルベール教官、いっ、いえ、フォングラ中佐殿。士官学校から持ち込んだ食糧は、もう無くなってしまいました。王都が封鎖されているので、市場が開くかも不明です。王宮で貯蔵されている兵糧を使わせていただきたく、総務部長殿にお願いにあがりました」
 ジルベール教官は、面白そうにわたしを見ている。
「今は、戒厳令下の戦時体制だからなぁ。王宮兵糧の供出は、王宮最高指揮官の承認が必要だ。一筆書かせるから、待ってろ。⋯⋯ああ、伍長じゃ相手にされないなぁ。よし! 将官権限でエステル・ヴァンジェを、少尉に非常時進級させる」
 士官がみんな戦死してしまった部隊で下士官が指揮をとるような場合、一時的に下士官の階級を士官に上げることがある。それが非常時進級だ。でも、それができるのは直属の将官だけ。中佐のジルベール様には、そんな権限はない。
「でも、それは⋯⋯」
「心配すんな。オレもさっき少将に進級した。しかも王都警備隊長官だぜ。はははは! それによ、王宮最高指揮官は、公爵レオン・マルクス大将だ」
 レオン様、偉くなった! 嬉しい。
 ジルベール少将は、軍服のポケットをゴソゴソやって階級章を引っぱり出した。家名のフォングラ少将が本当だけど、お名前のジルベール少将と呼んでも失礼にはならない。
「敵前逃亡しやがって階級を剥奪した奴らからはぎ取ったんだけどな⋯⋯。少尉の階級章は無いなぁ。あぁ、中尉の階級章があった。よし! エステルは、しばらく中尉だ」
 ジルベール少将は、階級章をわたしの胸に付けようとして手を引っ込めた。
「おっと。女の子の胸に触るのは、よくねぇな。自分で付けてくれ。よーし! エステル・ヴァンジェ特任中尉には、王宮守備部隊への食糧配給の指揮をとってもらう。正式な辞令を交付するから心配すんな。ちょっと待ってなよ」
 
 王族の間に戻ったジルベールが、レオンに報告した。
「士官学校のエステルが来ましたよ。王宮の備蓄兵糧をよこせって。ちっこいのに度胸のある娘だ」
「ああ。あいつがいなかったら、兵を餓えさせていたな」
 エステル伍長が指揮した炊事部隊は、親衛隊や警備隊にも食糧を供給した。非常時の食い物のことなんか考えていなかったので、大助かりだ。もちろん王宮守備の最高指揮官であるレオンの耳にも入る。五階の王族の間からでも、エステルが駆け回って指揮しているのがよく見えた。
「レオンさんは、愚連隊退治の時に、この娘は大物になるって言ってたっけ。どうして分かったんすか?」
 レオンは黙ってニヤと笑った。
「ローザ秘書官、筆記しろ。『王宮最高指揮官命令 王宮内に貯蔵している糧秣の王宮外への持ち出しを許可する。糧秣管理課および関係部署は、王宮守備隊への食糧補給の指揮をとるエステル・ヴァンジェ特任中尉の求めに応じ、最大の便宜をはかれ』。よーし、持ってけ!」
 レオンが押印と署名をして渡すと、カムロの少年が紙片をつかんで外で待つエステルの所に駆けていった。その後ろ姿を、ローザ・ノーブル秘書官が見送っている。
 エステルが入校してからさらに美しく、貴族令嬢のような容姿と所作に磨きがかかったローザは、エステルと同じくレオンに見出された孤児であり、エステルの恩人であり、親友でもあった。「ここで一緒に働くことになりそうね」。そう考えてローザは小さく微笑んだ。後にローザは王妃になり、エステルは侯爵夫人になる。

 戒厳令下の三日間、敵の攻撃はなく、逆に最終日に反乱分子の一斉摘発が行われた。
 突入部隊には、必ず二人以上の女子生徒が配置された。貴族令嬢さえ容赦なく拘束する予定なので、女性を縛ったり見張るのが任務だ。女子生徒にも「大逆犯に情け容赦は無用である」と厳命されている。
 戒厳令が解除されると同時にフランセワ王国は、戦時体制に移行した 。
 士官学校生徒は、主力は引き続き王宮守備隊として配置された。使命感に駆られた士官学校生徒は、最前線に行きたがったが、何年も教育してきた将来の軍の中核を兵として消耗するわけにはいかない。
 エステルの階級が中尉だったのは、三日だけで、戒厳令が解除されると元の伍長に戻った。
 それまで若干十六歳の特任中尉としてクルクル駆け回って三百人の指揮をとり、王宮守備隊の腹を満たしてくれたエステルは、ちょっとした人気者だった。栗色の目と髪をした可愛らしい少女だ。小柄なので、まだ十五歳にもなっていないように見えた。とても軍人には見えない。ところが特任とはいえ、十六歳で中尉の仕事をこなした。普通は、二十三歳で中尉に進級できれば出世頭だ。
 士官学校の五年の課程を二年で終了し王国大学の聴講生になるほど優秀なのに、エステルには秀才特有の尊大さが全くなかった。レオンが熊でジュスティーヌ王女が鶴だとすると、エステルは雀やリスを連想させた。

 戒厳令が解除されてホッとする間もなく、エステルに招集命令書が届いた。「二十日午前七時に総司令官執務室に出頭せよ」。
 もともと総司令部は別にあったのだが、全軍を指揮するには手狭なので、レオンは王宮の一階大広間を突貫工事で仕切って総司令部に変えてしまった。ジュスティーヌと結婚式をひらいた場所だ。
 一介の伍長と国軍の総司令官が面会するというのは、異例だ。校長のレオン・マルクス少将とは立場が違う。副校長に招集命令書を持って行くと、なにも言わず当日の任務を解除してくれた。
 遅刻するわけにいかないので、かなり早く王宮に着いた。顔見知りの王宮門衛さんだけど、招集命令書をじっくりと改められた。総司令官が、こんな女の子に一体なんの用だと驚いたらしい。
 総司令官執務室は、入り口のすぐ近くにあった。普通は地位が高い者は奥の方にいるものだが、出入りに便利だという理由で、門衛の詰め所のすぐ近くを執務室に改造した。総司令官がそんな場所に陣取っているものだから、作戦会議室や司令部付き将校の勤務室も入り口あたりにかたまっている。
 民衆派唯一の高位貴族だったレオンは、それまでも殺人的に忙しかった。軍士官学校校長に納まっても、意味のない行事のたぐいは副校長に任せて、レオンは生徒たちの答案や論文を読むことを好んだ。
 エステルが入校したこの二年ちょっとの間に、二人が対面して話したことはない。しかし、群を抜いて優れているエステルの答案や論文を、レオンは、よく読んでいた。
 三十分くらい待って、七時になる一分前に急造のベニヤ板みたいな執務室の扉をノックした。
「⋯⋯入れ」
 殺風景な二十畳ほどの部屋の奥に大きな机が据えられ、レオンが一人で書きものをしていた。剣を二本も立てかけた大机に書類が積み上げられ、レオンの向こうには計画書や地図を保管する資料室があるようだ。
 書類仕事をしていてもレオンの姿は、ギラギラしていて家族の仇をとってくれた時と変わらないように見えた。エステルは、胸をドンする敬礼をした。脚がふるえる。
「軍士官学校女子生徒部隊隊長、エステル・ヴァンジェ伍長。まいりましたっ」
 レオンは、手を止めエステルの顔をながめ、当たり前のように言った。
「ヴァンジェ伍長は、本日をもって士官学校を卒業とする。少尉として任官し、総司令部付き将校となる。今後は総司令官の秘書の任務についてもらう。すぐ辞令を書くから受け取れ。寮から私物を持って、指定された王宮内の個室に搬入後、ただちに仕事にかかれ」
 エステルは、めまいがした。伍長が大将に反論するなど普通はあり得ない。でも、レオン様は民衆派だ。
「おっ、お言葉ですが。わたくしは、まだ勉強が足りておりません。少尉、まして総司令官閣下の秘書など、力不足です」
 普通の将校なら、怒鳴りつけて命令に従わせて終わりだ。ところがレオンは譲歩した。
「⋯⋯士官学校に未練があるのか? お前には、もう学ぶことはないと思うぞ。まぁ、いい。学籍は残しておく。しかし⋯⋯士官学校を卒業しないと士官にできねえな。とりあえず一階級進級して軍曹だ。オレは忙しい。早く荷物を取ってきて仕事を手伝え」
 否も応もない。レオンもエステルのような逸材は、軍大学校まで進ませてじっくり育てたかった。フランセワ王国の人口は、約千五百万人だ。なのに高等教育機関は王国大学と軍大学校しかなく、学生は全部で五千人しかいない。ちなみに現代日本の学生の数は、約三百万人だ。封建社会のセレンティアでは、知識層が致命的に不足していた。だが、もう時間がない。
「あと二十五日で開戦だ。そのつもりでいろ」

 エステルは、思い切り働いた。自分にミスがあったら兵隊が死ぬかもしれない。真剣だ。
 エステルの働きを見て、レオンは炊事部隊から優秀な女子生徒を二十人ばかり引き抜いて総司令部の細々した雑務を任せた。総司令部要員は、みんなオーバーワークなので、保守派に近い将校からさえ反対の声は出なかった。
 レオンの秘書という立場でエステルは、参謀将校を集めた作戦会議に出席した。参謀たちが驚いたことにレオンは、よく後ろを向いて「これはどう思う?」と小柄で可愛らしい秘書に意見を求める。少女は、しばしば「うっ」となるような鋭い意見を述べた。
 レオンと少女は、意見が食い違うと居並ぶ参謀将校たちの前で論争をはじめた。エステルは、総司令官に対しても全く遠慮がない。少女の方に理があると判断すると、レオンは自分の意見を引っ込めてエステルの対案を取り入れることもしばしばだった。総司令官付き秘書という役職のエステルだが、実態はレオン・マルクス総司令官の首席参謀だった。
 軍事に関してほとんど知識のない若い国王は、戦争問題ではレオンに絶大な信頼を寄せている。レオンは、無能将官を三十人も王宮に呼びつけ、国王の前で勅命として即時退役を言い渡し隠居させた。「この者たちは無能です。退役を申し渡して下さい」とレオンが上奏してリストを渡せば、即日その通りになる。悪徳ブラック企業のようだが、クビになった将官たちは本当に無能だったのだから仕方がない。戦場に出なくてすんで、内心ホッとした者も多かった。
 レオンは、軍事に関しては容赦も遠慮も一切しなかった。大勢の兵の命がかかっているのだ。ほとんどいなかったが、抗議してくる者には「抗命罪と不服従罪で拘束する」と恫喝して黙らせた。軍では、両方とも死刑もあり得る重罪だ。レオンだったらやりかねない。
 レオン・マルクス総司令官による軍部の粛清は、将校団を震撼させた。有能ならば中佐くらいでも将官に進級させ正規軍団の指揮をとらせた。だが、能力不足を露呈すると、どんな高位貴族であろうと、それどころか民衆派であっても容赦なく解任する。
 開戦直前に解任されたら自決ものの大恥だ。経験はあるが知識のない年長の将官と、知識はあるが経験不足の若手佐官は、お互い協力し合って不足する部分を補うようになった。レオンも同じだった。思考が大まかで飛躍のある自分が誤った判断を下さないように、エステル軍曹を目付役につけている。
 実際にエステルは、天才だった。日本で例えるならば、十四歳で東大医学部に首席で合格して、三カ月後には司法試験と外交官試験にも合格してしまうというレベルだ。レオンよりよほど頭がよい。ところが本物の天才であるエステルは、レオンを天才だと信じて疑わず、心から尊敬している。
 エステルは、秘書であるとともにレオンの身の回りの世話係でもあった。お貴族様の将官なのに、レオンはまったく手が掛からなかった。粗衣粗食だ。
 食事は、地下のメイド部屋からもらってきた黒パンと干し肉を、仕事しながら食べる。飲み物は、足元の土瓶に入れた水を飲むだけだ。
 服装にもまるでこだわらない。軍服に勲章を付けても「邪魔だ」と言い、むしってそこらに放り捨てたりする。エステルや様子を見にくるジュスティーヌ王女の侍女たちがどうにか格好を整えた。
 なかなか風呂にも入ろうとしなかった。国王の前で臭かったりしたらまずいので、面倒くさがるのをなだめてエステルと侍女たちが身体を拭いた。さすがに美少女秘書と美人侍女に前を拭かせるのは宜しくないという程度のデリカシーはあるらしく、「自分で拭く」と言って手荒く拭いてから、キャトウ侍女に手ぬぐいを放って「ギャッ!」と悲鳴を上げさせたりしていた。念のために書くと、王族が侍女に身体を拭かせるのは当たり前で、ジュスティーヌ王女もそうしている。悲鳴を上げるキャトウ侍女の方が、王宮では非常識ということになる。

 大酒飲みの女好きという噂だったが、酒には全く興味を示さない。女の方も、あの美しい奥方を抱く暇もないようだった。まだ若い首席侍女のアリーヌは、「お忙しいでしょうが、しっかり御子を成して下さりませんと困ります」なんて苦情を言っていた。エステルは、肉体の欲求を精神が完全に抑え込んでいると、むしろレオンを尊敬した。
 ほとんど眠らなくても平気な異常体質らしく、寝ているところを見たことがない。エステルもレオンに合わせて仕事をしたが、一週間で気絶して倒れてしまった。何時間か昏睡して目を覚ますと、レオンから「一日に最低四時間は眠ること」と命令された。
 王宮守備部隊の食糧供給を指揮して駆け回っていた少女が、レオン・マルクス総司令官の秘書に出世した。いつもレオンの後についていて、必要な書類を指示される前に既に取り出していたりする。はたから見ても有能だ。一週間もすると総司令部でエステルを知らない者はいなくなった。
 ところが数百人の総司令部要員に顔を見られたために、エステルが心底おそれていたことが起きてしまった。ずっと、女子軍士官学校に入校した時から、エステルが、ずっと恐怖していたことだ。

 セレンティアでは深夜となる九時ごろ、まだエステルは奥の資料室で書類をまとめていた。なのでノックの音に気がつかなかった。
「ジグリー少佐です。入室いたします」
「おぅ。入れ。どうした?」
 王宮親衛隊第四中隊でレオンの元部下だった男だ。親衛隊の騎士たちは、クーデター鎮圧の功によって一階級か二階級進級し、少佐や中佐になって総司令部の参謀将校や赤軍兵団指揮官に任命されている。レオンは、第四中隊の元部下には口調が親しげになった。
 ジグリー少佐は、入室するや執務室を見まわした。エステルが見当たらないことに、なぜかホッとしたようだ。
「エステルという娘について、お耳に入れたいことがあります」
 書類に向かっていたレオンの手が止まった。
「娘⋯⋯? エステル軍曹のことか。なんだ?」
「えぇ⋯⋯。その⋯⋯。あの娘は、街に立っていかがわしい商売をしておりました。そのような者をお側に置くことは軍の名誉を汚す⋯⋯」
 レオンが顔を上げた。
「ほう。根拠は? なぜ、そんなことを知っている?」
 ジグリー少佐は、少々動揺した。
「いえ、その⋯⋯。何度か客として遊びましたもので⋯⋯」
 レオンは、「売春は軍の名誉を汚すけど、買春は清らかなのか?」と言ってやりたかったが、グッとこらえた。
「どのぐらい前のことだ?」
「四年ほど前かと記憶します」
 エステルは、今十六歳だ。だが、この世界には十二歳の娼婦などいくらでもいる。
「数年前にエステル軍曹によく似た娼婦を買った。それが根拠か?」
「いえ、それが⋯⋯。先日夜食をとりに居酒屋に入ったのですが、たまたま隣の席にいた男が、「淫売だった姪が士官学校に入った」とクダを巻いておりました。少し酒を与えたところ、名前は『エステル』だと述べたのです」
 レオンは、小さくため息をついた。どうやってごまかしてエステルを守るか考えている。
「エステル軍曹が、オレが校長を務めていた軍士官学校の生徒であることは知っているな? 士官学校の入校に際しては厳重な身辺調査が行われる。オレの秘書につけた際にも、最深度調査を行ったばかりだ」
 嘘が嫌いなレオンは、身辺調査の結果がどんな内容だったかは、言わない。
「お前には、エステル軍曹を告発する権利がある。だが、保安部の調査資料という公文書がある。勝ち目は無いぞ⋯⋯。本当にその娼婦は、エステルだったのか? 髪や目の色が似ているだけじゃないのか? エステルの叔父とやらを、証言台に立たせられるのか?」
 ジグリー少佐は、動揺しつつも粘った。
「⋯⋯その、娼婦にはヘソの横にホクロがありました。それを見れば⋯⋯」
 レオンがニヤニヤと笑った。あとひと押しだ。
「エステル軍曹に「ヘソを見せろ」とでも命令すんのかよ? とんだことだな。⋯⋯それにな、フフフ⋯⋯エステルのヘソにホクロなんか無いぞ。任務に支障がでる。もうそれくらいにしとけ」
 レオンの顔をポカンと見たジグリー少佐だが、すぐに総司令官の『愛人』にとんでもないことを言ったことに気づき青くなった。本当はレオンは、エステルの裸に興味などない。もちろん身体の関係なんぞない。ヘソなんか見たこともない。
 ジグリー少佐は、我に返り姿勢を正すと胸ドンの敬礼をした。
「もっ、申し訳ありません! 私の思い違いでした。今後このような間違いを犯さぬよう、慎重に調査したうえで進言させていただくよう肝に銘じますっ!」
「いや、気がついたことがあったら、今まで通り進言してくれ。だが、エステルの妙な噂は、流すなよ。オレの秘書で、ヘヘ⋯世話係なんだからな。それより戦争が終わったら、第四中隊で戦勝祝いの宴会をしたいもんだ」
 これほどレオンがエステルを引き立てていたら、いずれレオンの愛人だとかいう噂も立つだろう。遅かれ早かれだ。レオンが引き立てているのは、エステルの才能なのだが。

 戦勝祝いの幹事を引き受けた遊び人のジグリー少佐がレオンの執務室から退出すると、奥の資料室からエステルが出てきた。脚がふるえ顔面蒼白だ。フラフラとレオンの横を通り、大机を挟んで相対した。しばらく黙って床を見ていたが、顔を上げた。
「あっ、あの人の言ったことは、本当です。わたしは、売春をしていました」
 そう言うと脚の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。息が荒い。過呼吸だ。
「わっわたしは、汚い、汚いんです。身体が汚れて、心も醜い。みっ、みんなを裏切りました。マーロウもローザもレオン様も⋯⋯。だましたんです。どっ、どうか、わたしを裁いてください」
 レオンは、エステルが街娼をしていた過去など、とうに把握していた。エステルの保護・教育係だったマーロウとローザの二人も、知っている。
 売春婦だったなんて不利な過去を隠すことは、レオンには当たり前に思えた。なので、エステルがこれほど強い罪悪感にとらわれていたことに少々驚かされた。そして、まるでデリカシーがなかった。
「⋯⋯戦争が落ち着いたら、ヘソのホクロをとっておけよ」
 エステルは、まだなにかしゃべろうとした。だが、息が詰まり喉を押さえてしばらく悶え苦しみ、とうとう気絶してしまった。
 レオンは、エステルの才能を高く買っていた。だが、総司令官執務室で二度も卒倒したのがバレたら、秘書を解任せざる得ない。過呼吸で死んだ者はいない。外に出さず、資料室にエステルを運んで床に寝かせておくことにした。幸い深夜だ。誰にも見つからないだろう。レオンは、仕事を再開した。

───────────────

 お父さんとお母さん、それにお兄ちゃんと弟が殺されたのは、わたしの十二歳の誕生日だった。腰を痛めて歩くのが不自由だったお婆ちゃんに店番をお願いして、家族でお食事に行く途中だった。
「あっ! あの屋台のお菓子、すごくおいしいんだ。買ってくる」
 屋台のおじさんとは顔なじみだ。
「このお菓子、五個ちょうだい」
「あいよ。嬢ちゃん、お出かけかい?」
「うん! みんなでねぇ⋯⋯」
 その時、お母さんの悲鳴が響いた。驚いて振り返ると、お父さんとお母さんが真っ赤になって倒れていた。血の滴った剣を持ってるやつらがいる。愚連隊だ!
「ヘヘヘ⋯⋯。ガキを逃がそうとしやがった。先に殺しちまったぜ」
「親の前でガキをなぶり殺すのが面白いのにな」
「ははは⋯⋯。たかが下民だ。早く殺せ」
 ジェイ君とケイちゃんが捕まってる。
 愚連隊が大きな剣を叩きつけると、ジェイ君の首がもげた。ケイちゃんは、思い切り地面に叩きつけられて動かなくなった。上から剣を突かれ、えぐられている。
「くたばったな。おい、川に捨てるぞ」
「待てよ。女のガキがいねえぞ」
「知るか。分かりゃしねえよ。へっ!」
 わたしは、家族のところに駆けて行こうとした。行こうとしたんだ!
「おかぁ⋯⋯ひっ!」
 大きな手が肩をつかんだ。振り返ると屋台のおじさんだ。
「嬢ちゃん、はやく逃げなっ。母ちゃんたちは、もう無理だ。はやくっ!」
 ⋯⋯わたしは家族を捨てて逃げた。臆病で卑怯だからだ。
 お家にたどり着くと、お店の前でお婆ちゃんが放り出されて尻餅をついていた。知らない人たちが、お家とお店から荷物を運び出している。近所のおばさんが、棒立ちになっているわたしに気づいて教えてくれた。
「あいつら愚連隊の手先の運送屋だよ。ヴァンジェさんはどうしたんだい?」
 家族は、みんな殺されてしまった。ここにいたら、お婆ちゃんも危ない。お婆ちゃんに肩を貸して、必死で家の前から逃げた。

 王都パシテは、浮浪児でいっぱいだ。文無しのわたしとお婆ちゃんが入りこむ余地なんて、ほとんどない。やっとたどり着いたのは、川沿いスラムの橋の下だった。スラムの中でも一番底辺の場所だ。
 パシテ川は、毒の川だ。いつでも汚物や腐った物が浮いている。臭いもひどい。死体だってよく流れてくる。こんな川に落ちたら病気になり、死んでしまうこともある。決壊した時、スラムの人たちは逃げることができる。でも、橋の下のわたしたちは、毒水にのまれてしまう。
 わたしとお婆ちゃんが橋の下にたどり着くと、そこに住みついている人たちは黙って場所を開けてくれた。大怪我をして働けなくなった人、体が腐る伝染病にかかって棄てられた人、目が見えなくなった人、四歳くらいの骸骨のような孤児、頭が変になってしまった人。そんな世間から見捨てられた人たちが寄り集まって、死ぬのを待っていた。
 お婆ちゃんは、殺された家族とずっとお話しするようになった。わたしのことが分からなくなったみたいだった。腰が悪かったのにひどくぶたれたせいで、自分では歩けなくなってしまった。
 夜が明けると、お婆ちゃんを置いて食べ物を探しに出かけた。野菜屑でも落ちていないかと探したけれど、もうとっくに拾われてしまっていた。ゴミ箱をあさろうとしたけど、グループの縄張りが決まってるって浮浪児たちに追い払われてしまった。
 なにも見つからなかった。ちゃんとお家に住んでいないと井戸も使わせてもらえない。しかたなく道端の泥水をすすった。
 半日ウロウロして夕方になった。なんにもならなかった。
 わたしに売ることができるものは、ひとつしかない。

 盛り場の隅にある通りに行った。お母さんと通りかかったことがあった。昼だったのに、女の人が何人も道端に立っていた。お母さんは、「見ちゃいけません」と言ってわたしの目をふさぎ、足早にその場所から離れた。
 夕方なので、その場所に女の人が大勢立っていた。こわかったので、女の人たちから三十メートルくらい離れたところに立つことにした。 
 すごく恥ずかしかった。だからずっと下を向いていた。男の人が近くを通るたびに、体がビクッとなって後ずさりした。そんなことをしているうちに、気がついたらすっかり夜になっていた。わたしは盛り場から逃げ出した。途中、拾ったお皿に道端の泥水を入れて橋の下に帰った。お婆ちゃんは、まだ家族とお話しをしていた。
 翌朝、起きると大怪我の傷にウジ虫が涌いて一晩中うなっていた人が、野垂れ死んでいた。すぐに臭くなるので、何人かで毒川に投げ込んで捨てた。ウジ虫を拾って食べている人がいたけど、わたしには無理だった。
 ずっと食べ物を探して歩き回ったけど、あきれるほどなんにも落ちていなかった。三日も食べていないので、フラフラした。なんとかしないと二人とも死んでしまう。まだ明るいけど、盛り場に立つことにした。
 もう、恥ずかしがってなんかいられない。女の人たちから十メートルくらい離れた所に立った。女の人たちは、いじわるな人もいれば親切な人もいた。
 夕方になっても、男の人は通り過ぎるだけで、だれも、わたしを買ってくれる人はいなかった。
「新顔だね。あー。あんた、昨日も立ってただろ。ダメだよ。そんなんじゃ、お客はつかないよ」
 胸の開いた黄色い服のお姉さんが話しかけてきた。荒んだ感じはしたけど、本当は親切な人だった。病気の家族を養ってるって言ってた。
「いいかい。あたしたちは身体を売ってるんだよ。肌を見せなくっちゃ」
 そう言ってわたしの上着のボタンを四つくらいはずした。
「下を向いてちゃダメだよ。顔を見せて。お客が見にきたら、笑って誘うんだよ。誰だって愛想のいい店に入るだろ?」
 死にたいほど恥ずかしかったけど、教えてもらったとおりにした。たいていの男の人は、わたしやお姉さんたちに無関心だった。なかには眉をひそめ顔をそむけて通り過ぎる人もいた。
 顔や体をながめまわすのが、お客さんだった。そんなふうに見られるのは初めてだった。でも、お客さんをとらないと、餓死してしまう。教わったとおりに、笑い顔をつくって見せた。きっと顔がこわばっていたんだと思う。お客さんは、他のお姉さんの方へ行ってしまった。
 何十人もお客さんが通って、そのたびに笑い顔をつくった。だけど誰もわたしを買ってくれなかった。もう暗くなってきた。わたしは必死だった。
 通りかかったお客さんが、わたしの顔を見て、ボタンを開いた胸元を見て、少し迷ってから行ってしまいそうになった。
「おねっ⋯⋯お願いです。わたしを、買ってくださいっ」
 お客さんは、ちょっと考えてからわたしの目の前に指を三本つきだした。
「これでいいか?」
 意味が分からなかったけど、わたしは何度もうなずいた。男の人は、歩き出した。
「どうしたんだ? 来いよ」
 おなかが空いてフラフラした。我慢してついて行くと、三分くらい離れた場所に掘っ建て小屋があった。お客さんが番人におカネを払って、いっしょに中に入った。薄暗くてすえた嫌な臭いがした。シミだらけのベッドがあって、そこでわたしは裸にされた。
 すごく痛くて、すごくすごく気持ちが悪かった。笑ってないといけないのに、少し泣いてしまった。
 血が出ているのを見てお客さんは、驚いたようだった。笑いながら四千ニーゼくれた。お客さんが出てってからも、なんだか寒気がしてしばらくベッドの上でふるえていた。おカネを握って外に出ると、もう真っ暗だった。盛り場のお店でお水と黒パンを買って、橋の下のお婆ちゃんのところに帰った。お婆ちゃんにしがみついて泣きながら眠ってしまった。
 つぎの日は、気持ちが悪くてなかなか起きられなかった。お婆ちゃんが家族のみんなと話す言葉を聞きながら、寝たり起きたりしていた。でも、夕方には盛り場に行った。
 指三本は、三千ニーゼという意味だそうだ。⋯⋯わたしが初めてで血が出たので、四千ニーゼくれたみたいだ。お姉さんたちは、「初物だったら、一万ニーゼはとらないとねぇ」と言って笑った。でも、そんなこと、わたしには分からない。
 それからわたしは、毎日盛り場に立って身体を売った。一日立っても売れない日があったし、お客さんが二人つく日もあった。まだ身体が小さいので、二人もお客さんをとると痛くて苦しかった。赤ちゃんができたらどうしようとお姉さんに相談したら、生理というのがくるまでは妊娠しないと教えてくれた。
 新入りは目こぼししてもらえるけど、毎日立っているとヤクザに場所代を払わなければいけなかった。一日千ニーゼで、払わないとピンク色のランプがついたお客さんのくる場所から追い出されてしまう。おカネが払えず、殴られるお姉さんもいた。
 ヤクザなんかよりこわいのが警備隊だった。突然やってきて取り囲み、警棒でみんなを脅した。カバンや袋の中身を地面にぶちまけて、おカネを取り上げた。服を脱がされポケットも調べられた。
 おカネを持っていないと大勢の人が観ている中で数珠繋ぎにされ、地区警備隊の牢屋に入れられてしまう。一日で出てくるお姉さんもいれば、一カ月も閉じこめられたお姉さんもいた。なんでこんな差がつくのか、誰にも分からなかった。
 何度も警棒でぶたれて気絶してしまったお姉さんがいた。運ぶのが面倒だったんだと思う。お姉さんを置いて警備隊はどこかに行ってくれた。盛り場にお店や屋台を立てている人は、お姉さんたちに同情していた。好きで売春なんかしてる人なんて一人もいない。みんな事情を抱えていることを知っていたからだ。気の毒そうに見ていた屋台のお兄さんが、お姉さんを抱き起こしてくれた。その時、こう言うのが聞こえた。
「もう、こんな商売やめなよ⋯⋯」
 でも! でもっ! だったら、どうやって生きていけばいいの!
 わたしも逃げ遅れて、警備隊に捕まってしまったことがある。蹴飛ばされて転び、背中を警棒でぶたれた。ぶちながら、「きたない」とか「にんげんのくず」とか「はじしらず」とか叫んでた。すごくこわかった。ポケットの奥に隠していた五千ニーゼを出して、ひざまづいて差し出して、「ゆるしてください」って泣きながらたのんだ。おカネをむしり取って警備隊は、どこかに行ってくれた。背中が青く腫れ上がり、何日も痛かった。でも、おカネを取られてしまったので、売春は休めなかった。
 警備隊よりこわいのは、お客さんだった。あの黄色い服のお姉さんが、お客さんをとってどこかに行くのを見かけた。数日後、お姉さんが首を絞められて殺されたって聞いた。やってきた警備隊は、「恥知らずな淫売は、不潔だから、死んだほうが街がきれいになる」って言ってた。犯人を捕まえる気なんて全然なかった。
 黄色い服のお姉さんは、わたしに親切にしてくれた。それに病気の弟たちを養うために売春してたって言ってた。お姉さんが死んだから、きっと弟たちも餓死してしまっただろう。わたしも不潔だから、死んだほうがいいんだろうか。
 わたしも売春の小屋に入ったとたん、お客さんにぶたれたこともあった。床に倒れたら、お腹を蹴られた。殺されるかもしれないと思って、這いつくばってふるえていた。お客さんは、わたしの頭や背中を笑いながら踏んづけた。抵抗しないで泣いていたら、しばらくしておカネを投げて出て行ってくれた。
 血が出るくらい乱暴にされることも多い。知らない男の人と密室に入るのは、すごくこわかった。

 親切なお姉さんにこぼすと、少し考えて古着屋さんに連れて行ってくれた。
「アンタの格好は、いいところの嬢ちゃんがお出かけしてるみたいだよ。それじゃあねぇ。淫売のコツはね、たくさんお客をとって、いいなじみをつくるのさ」
 紅色で胸の開いたワンピースを持ってきてくれた。
「ほら。着てごらん」
 着替えるとお姉さんは、満足そうにうなずいている。スカートの丈が短く、なんだかすごく下品で、『売春婦』という感じがする服だ。
「あの⋯⋯。この服は、ちょっと⋯⋯」
「まだ嬢ちゃん気分が抜けないのかい。いいかい? あたしたちは、身体を売ってるんだよ。この服はね、看板なんだ」
 そうだ。わたしは売春婦なんだ。売春をしてるって一目で分かる服を着ないとダメだ。売春婦の制服を着て盛り場に立ち、お客さんを誘わないといけないんだ。
 わたしは、靴を売っておカネをつくり、この服を買った。
 紅色の売春婦の服は、たしかに効果があった。薄暗い街頭でピンク色のランプに照らされ、胸の開いた赤い服を着て娼婦の笑いでお客さんを誘うと、今までよりたくさんお客さんがとれた。いい場所をもらうために、ただでヤクザの相手もした。わたしは、どんどん汚くなった。
 どんなに気持ちが悪くても、お客さんの求めることをして娼婦の笑いを浮かべていれば、お客さんは満足して優しくしてくれる。気持ち悪い物を口の中に出された時は、えずいて吐き出しそうになる。でも、必死に我慢して飲みこんだ。そうしてお客さんを上目づかいに見て媚びて笑うと、お客さんも笑って千ニーゼ余計におカネをくれることもあった。でも、お客さんが小屋から出て行くのを待って、口の中に指を差し込んで吐いた。涙がぽろぽろ出た。
 他にもたくさん汚らしいことをしたので、なじみのお客さんができた。なかには親衛隊の騎士様までいた。安くて手軽だって笑ってた。お客さんがとれない日は、ほとんどなくなった。おかげで、少しはお客さんを選ぶことができるようになった。いつも死にたいと思っているのに、ぶたれたり殺されるのがこわいなんて、自分でもおかしいと思う。
 少しずつおカネを貯めて、毒川が増水する秋がくる前に、スラムの橋の下から物置小屋に引っ越すことができた。
 お婆ちゃんが家族のところに行ってしまったら、わたしもついて行こうと決めていた。ケモノみたいになったわたしを見て、お父さんは怒るだろうか? お母さんは泣くだろうか?
 ⋯⋯本当は、本当は、早くお婆ちゃんが死んでくれないかなんて、おそろしいことをよく考えた。売春なんかしているから、心まで人間ではなくなったんだ。


 わたしが盛り場に立つようになって一年くらいたった頃だった。その日も夕方から紅色の売春婦の制服を着て、物色にくるお客さんにいやらしい娼婦の笑いを返していた。
 お客さんか通行人か、簡単に分かる。その人は通行人だった。わたしなんかには全然関心を持たず、通りすぎていった。でも、通りすぎてから、ビクッとなって振り返った。足早に戻って来ると、わたしの顔を見て驚いている。
「⋯⋯エステル? エステルじゃないか! なにをしているんだっ!」
 その人は、叔父さんだった。身内にこんな姿を見られたのが恥ずかしくて、わたしは下を向いて泣いてしまった。叔父さんは、わたしの手首をつかむと盛り場から引っ張っていった。
 五分も歩けば盛り場から出る。通りがかった人たちが、ジロジロと見ていた。うす暗くなっていたけど、紅色の売春婦の服は、ものすごく目立つ。こんな服を着ている女がどんな商売をしているか、子供でも分かる。
「おっ、叔父さん。着替えさせて。⋯⋯恥ずかしい」
 板塀の裏に回って、家族が殺された日に着ていた服に着替えた。あれから一年以上たったのに、服は小さくならず、逆に大きくなったような気がする。栄養不良のせいで、身体の成長が止まったんだろう。
「ついてこい」と言うと叔父さんは、怒ったみたいにずんずん歩いていった。わたしは、小走りになって追いかけた。十分ぐらい歩くと青果市場に着いた。門番が立っている。浮浪児が入ろうとすると、棒でぶたれて追い返されてしまう。でも今日は叔父さんの後について行ったので、青果市場に入れてもらうことができた。
 門から少し歩くと事務所の小屋があった。叔父さんが入って、事務の人に声をかけている。わたしも後について入った。
「主任はいないか?」
 背の低い男の人が立ち上がった。
「⋯⋯なんだ。珍しいな?」
 なんだか叔父さんを警戒しているみたいだ。
「おまえ、市場で荷運びを使ってたよな。この子、どうだ?」
 そう言って叔父さんは、わたしの背中を押した。主任さんは、わたしをジロジロ見た。
「おっ、お願いしますっ! いっしょうけんめい働きますっ!」
 もう売春しなくてすむなら、なんだってする。やれといわれれば靴だってなめるし、毒川に飛びこむことだってできる。
「ずいぶん小さいな。荷運びが務まるか?」
「大丈夫ですっ。もう十三歳です。がんばりますからっ。いっしょうけんめい働きますからっ!」
 叔父さんが口添えをしてくれた。
「なあ、たのむよ。落ち着く前はいっしょにつるんだ仲じゃないかよ」
 しばらく主任さんは、わたしと叔父さんを見比べていた。「ちっ」と小さく舌打ちした。
「仕事は、朝四時から夕方六時までだ。市場で野菜を運ぶ。日当は千ニーゼだ。雨の日は仕事はない。それでいいなら、明日から来い」
 天に上るみたいだ。
「あっ、ありがとうございますっ。わたし、いっしょうけんめい働きますっ!」

 事務所から出ると、叔父さんはどんどん行ってしまった。ついて行こうとすると、手をあげてパッパッと払うしぐさをした。ついてくるなっていうことだ。
 ⋯⋯それはそうだ。売春婦なんかと歩いているのを誰かに見られたら、叔父さんまで汚いと思われてしまう。叔父さんの後ろ姿が門の向こうに消えるまで、何度も何度もおじぎをした。それから二度と叔父さんとは会っていない。
 孤児がちゃんとしたお仕事をもらえるなんて、奇跡みたいだ。翌日から市場で荷運びの仕事をした。届いた野菜を競り場に運んだり、落札された野菜を八百屋さんの荷車に運んだりする。手にマメができ、マメがつぶれて手のひらが血だらけになった。痛かったけど、売春なんかよりずっとマシだ。明け方から暗くなるまで必死で働いた。
 日当は、一日千ニーゼだった。売春すれば、ヤクザや警備隊にとられてしまっても二千ニーゼくらいは残る。収入が半分になってしまった。やっていけるか心配だった。でも、青果市場には野菜屑がいっぱい落ちていた。それを拾って食べれば、なんとかやっていけた。
 長雨が続くとお仕事がないので困ってしまった。一週間も雨が続いた時は、お腹が空いて我慢できず五日目に市場に行った。
 仕事なんかないことを知っているのに、門番の人はわたしを見逃して入れてくれた。それはわたしが、よごれた人間だからだ。
 売春婦だった時は、いやらしい笑いをつくってお客さんを誘った。今は、『明るい健気な女の子』を演じて、市場の人たちに愛嬌を振りまいて媚びた。誰かクビになるとしたら、力の無いわたしが最初だって分かっていた。だから必死になって媚びた。もし市場の偉い人に身体を差し出せと命じられたら、いわれたとおりにしただろう。だって、ヤクザにはその通りにした。
 雨の中、誰もいない市場を歩き回り、隅のほうに落ちていた野菜屑を拾った。二日ぶりになにか食べられると思うと嬉しかった。「おつかれさまでぇす」と、いつも媚びている門番の人に『明るい女の子の笑い』を投げ、びしょぬれになって物置小屋に帰った。
 長雨の時期が終わると、やがて冬になった。お布団なんてない。寒かった。このままでは、お婆ちゃんもわたしも凍死する。だからわたしは、盗みをはたらいた。
 倉庫の隅に野菜を入れる大きな麻袋が積んであった。麻袋の中にパンパンになるまで他の袋を詰めこんだ。麻袋をかつぎ、荷物を運ぶふりをして門を出た。いつものように門番さんに挨拶したけど、本当は全身から冷や汗が出た。お家に着くと、大家さんからハサミを借りて麻袋を切り、お布団にした。ゴワゴワして寝心地は悪いけど、これでもう凍え死ぬことはない。
 わたしは、盗んだ。わたしは、泥棒だ。わたしは、ひどいことをした。仕事を紹介してくれた叔父さんを裏切った。雇ってくれた主任さんや信頼してくれた人たちを騙した。誰かが一生懸命働いて作った物を盗みだした。欲しいから盗るなんて獣と同じだ。売春なんかしてたから、人間の心じゃなくなったんだ。苦しい。苦しいよ。こんなに辛いのに、卑怯だから死ぬこともできない。だったら、心を殺そう。心が無くなったら、きっとなにも感じないでいられる⋯⋯。


 市場の仕事にありついてから十カ月たった。お家に帰ると近所の人たちが、マルクス隊長の親衛隊が愚連隊の根城に斬り込んで戦闘になっていると大声で話をしていた。
 家族を殺したやつらが死ぬ姿を見たい。お婆ちゃんに肩を貸して、わたしは愚連隊の根城に向かった。

「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました!」
 マルクス隊長は、膝をついて目線を合わせてきた。
「名前は?」
「あの⋯、エステルです」
「いい名前だ。何歳だ?」
「もうじき十四歳に⋯⋯」
───────────────

 目を覚ますと、奥の資料室に寝かされていた。総司令官が運んでくださったんだろう。公爵様が平民を運ぶなんて⋯⋯。
 勇気を出して資料室から出た。総司令官はまだ仕事をなさっていた。
「起きたな。三時間休みをやる。自室で寝ろ。五時に総司令官執務室に出務すること」
 レオン様は、わたしを許してくださるつもりだ。でも、いずれまた同じようなことが起きる。だからもう、軍にはいられない。
「わ⋯⋯わたしは、汚れています。心も身体も汚れてるんです。軍の名誉をけがす存在です。閣下にも、大変なご迷惑を⋯⋯」
 レオン様は、うんざりしたように手を振った。
「おまえは、王国大学の聴講生だったな。オレの講義にも出ていた。いったいなにを聴いてたんだ?」

 立ち見がでるほど大盛況のレオンの講義だが、エステルは公務なので最前列だった。エステルの横には、パシテ大神殿の神官や学者貴族が座り、後ろが特待生や軍大学校士官の席だった。小柄で十四歳くらいに見える少女が、軍服を着て特等席で講義を受ける姿は目立った。
 売春していた過去の自分を知っている学生がいるのではないかと怖ろしかった。だが、ほとんどの学生は貴族だ。ジグリー少佐のように好んで下等な街娼を買うような物好きは、そうそういなかった。それに軍服を着ると、別人のように見えるものだ。
「講義したはずだぞ。人間が社会をつくるのではない。社会が人間をつくる。おまえが汚れているなら、それは社会の汚れの反映だ。個人の責任ではない」
「で、でもっ、限度があります。わたしのしたことは⋯⋯汚いっ!」
 元々エステルは、家と店舗を持つ裕福な両親に育てられた。出身階層は中の上といったところだ。それが婆さんと一緒に、一気に社会の最下層に突き落とされた。エステルの行動力がなければ、数日で死んでいただろう。これほど優秀で行動力のある人間が、底辺で地獄を味わった。レオンにとって願ってもない人材だ。底辺の人間ほど、敵に対して容赦なく残酷になる。
 社会の最下層から這い上がった平民の少女を、王族という社会の最上層にいるレオンは、噛んで含めるようにオルグした。
「『悪いことをしてまでメシを食ってはいけない』と説教を垂れる奴がいる。だが、そいつが善人でいられるのは、餓えていないからだ。腹が減ったら、どんな人間でも正しくはいられない。弱い者が、餓えにさらされて悪に染り死んでいく現状は、社会の構造がそう仕組まれているからだ。オレは、そんな社会を打ち壊し、つくりかえる。いつまでも続く真綿で首を絞めるような餓死政策を許さない。そのために敵を倒す。邪魔をするやつは殺す」
 王国大学の講義やレオンの普段の言動を知っていれば、この男がそんなことを考えているのは明らかだ。だが、「口だけだろう」という楽観、準王族という地位と権力、そして軍と親衛隊の暴力がレオンを守っていた。
 レオンはエステルに、人間の精神が社会をつくるのではなく、社会が人間の精神をつくるのだと教えた。

「人間の物質的生活を決めるのは社会の経済的機構である。この土台の上に、法律的政治的上部構造がそびえ立ち、また人々の意識もこの土台に対応する」(マルクス『経済学批判序説』)

 エステル・ヴァンジェは、社会機構の圧力で娼婦に堕されたのだとレオンは、説いた。
 女奴隷が鞭打たれて犯されるのも、孤児の少女が餓死か体を売るかを選ばされるのも同様ではないか。そんな選択を迫ったのは社会なのだから、エステルには、なんの罪もない。そして、自分を売春街に追いこんだ社会を憎み転覆する権利がある。

「財産の差が生じるにつれて (- 略 -) 女子の職業的な売春が、奴隷の強制された肉体提供とならんで現れるようになる」(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)

 レオンは、エステルを煽った。レオンは、ただの男ではない。この国の最高権力者のひとりで、軍事学、哲学、医学、数学、それに剣術の天才とも謳われている。空論ではなく、思想を実現できる地位と能力がある。
 なによりアジテーションやプロパガンダを使って人の心を捉えるのがうまかった。この世界にはナチスやソ連のような政治プロパガンダはない。アジ・プロにスレていないので、エステルのような高知能の相手でも容易に落とすことができた。

 あの黄色い服のお姉さんを殺したのは、現象的には殺人犯だが、本質的には社会機構だ。警備隊は「淫売が死んだら社会がきれいになる」と言っていた。社会が底辺者への殺人や餓死を是認しているのだから、底辺者の側にも殺されるのが嫌なら、抵抗し、反撃し、そんな社会を憎悪し倒そうとする権利がある。
 レオンは、パズルをはめ込むように報復のイデオロギーを注入した。レオンのカムロ組織の導きで、エステルは、軍人になった。軍人は、人を殺すのが仕事だ。
「おまえは、やられっぱなしで引っ込むような人間じゃないだろう。おまえの力が必要だ。敵を殺せ。オレと革命戦争をやるんだ」

「敵を⋯⋯?」

「恐怖を組織して敵を絶滅する。それが任務だ」

 うつむいていたエステルの顔に、やがて笑みが広がった。それは娼婦が客を誘う笑いでもなければ、野菜屑を拾うため青果市場のチビ権力者に媚びる笑いでもない、。腹の底、心の奥から浮かんだ本物の笑いだ。
 エステルは、十六歳になっても生理がなかった。十二歳から一年以上も売春を続けていたせいで、子供を産めない体になったのだと考えていた。そして体だけでなく心まで壊されていた。

 上手に隠していたが、エステルの心に熱があるならば、それは憎悪だった。今までは、レオンにオルグされるまでエステルには、誰が・どうして・なぜ自分を地獄に堕としたのか、分からなかった。

 レオンは、そんなエステルに答えを教え、道筋を示した。

「復讐⋯⋯できるのですね?」

「おぉ。復讐だ。おまえを淫売に堕とした敵を皆殺しにしてやれ」


 のちに西方領主領戦争と呼ばれることになるこの戦争は、『明』のレオン・マルクスと『暗』のエステル・ヴァンジェの二人が主役といえる戦いになった。
 レオンは、革命の第一歩として奴隷解放を名分に領主貴族を根絶やしに滅ぼすと公言し、その通りに実行した。ところが、子供を殺すことだけは避けようとした。子供が好きだったし、子供は罪のない白紙であると考えていたからだ。
 エステルには、レオンのようなセンチメンタルな道徳性はなかった。自分は救いようがなく汚れているのだから、レオンさえ嫌がる最も汚い仕事に手を染めようと考えた。相手が何者であろうと敵と認識したなら、あらゆる手段を使って死に追いやろうとした。敵の死は、全ての問題を解決する。


 エステルは、憑き物が落ちたような本物の笑顔を見せて胸ドンの敬礼をした。
「五時に軍務に復帰します。二度と任務を放棄するようなことは致しません」
 エステルは、執務室のドアを開けて出ようとしたが、立ち止まって少し迷い、振り返った。
「⋯⋯どうしてわたくしを、これほど助けて下さったのですか?」
 もうレオンは、書類にあれこれ書き込んでいて顔も上げない。
「親衛隊や軍は、慈善団体じゃない。早く休め」
 エステルは、レオンの方に数歩戻ってきた。
「愚連隊を倒した時に、祖母を抱えて動けなくなったわたしを、マーロウとローザは『エステル』と呼びかけて手助けしてくれました。あの時、あの場所で、わたしの名前を知っていた人は、レオン様だけです」
──────────────
「名前は?」
「あの⋯、エステルです」
「いい名前だ。何歳だ?」
「もうじき十四歳に⋯⋯⋯⋯」
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 顔を上げたレオンは、苦笑していた。
「よく覚えているなぁ。助けたのは、おまえに育てる価値があると判断したからだよ。だがな、マーロウやローザの親切は、任務の枠を越えた本心だぞ」
「⋯⋯ご期待に応えるよう最善を尽くします」

 エステルがレオンの執務室から退室してから一時間後、カムロの暗殺部隊『SY』のリーダー、ハサマが呼び出された。
 日常的に餓死者がでるほどの悲惨の極にあった浮浪児を救済するとともに、街の噂を集めていたカムロ組織は、わずか四年で製紙工場や印刷所を擁する数千人規模の企業体となった。カムロの裏の顔は、特務機関でありレオンが育てた私兵団だ。任務は情報収集と政治宣伝が中心だが、破壊工作・テロ・暗殺に特化した非公然部隊を持っている。
「オレの秘書のエステル・ヴァンジェは知っているな? 資料だ。持ち出しは許可しない。暗記しろ」
 レオンは、大机ごしに書類を渡した。ハサマは、黙って受け取った。非合法活動家は、余計なことを言わないし訊かない。
「エステルの叔父がいるな?」
「はい」
「殺せ」
 ハサマは少々驚いた。
 保守派貴族には殺人鬼のように思われているレオンだが、襲われたのを返り討ちにしたり、民衆を好き放題に殺していた愚連隊を倒したりはした。しかし、悪事を働いたわけではない非武装の人を殺したことはない。
 失脚させられた時でさえ、非公然組織を持っているのに、政敵の暗殺に手を染めていない。政治的な主張が異なるからといって、そいつらを個人テロで殺しても、きりがなく無意味だからだ。
 この殺人は、SYの初仕事になる。なぜ?どうして?という質問はしてはならない。ただ任務を果たすだけだ。
「静かにやりますか? それとも見せしめで派手に殺しますか?」
「静かにだ。時間はかかってもかまわない。絶対にSYの関与を疑われる痕跡を残すな。ターゲット以外を殺してはならない。命令は口頭で行え。文書に残すな」
 ハサマは、握りこぶしを頭の横に置くカムロの敬礼をして執務室を出た。

 レオンは、エステルの叔父のような小物は見逃すつもりだった。しかし、エステルが街娼だったことをベチャクチャしゃべくるようでは、話しは違ってくる。エステル軍曹を育てるのに、三年という時間と相当な労力と資金がかかった。それに、もう手放せないほど有能だ。
 愛人疑惑のある女性秘書が娼婦だったということが知られたら、必ず軍の名誉がどうとか騒ぐやつがでるだろう。これから戦争をしようという軍の総司令官としては、打撃になる。軍部の粛清を断行したために、軍内にもレオンの敵は多い。こんなことを口実に肝心な時に総司令官を解任されたら、戦争が中途半端に終わってしまう。今までの苦労が水の泡だ。
 エステル・ヴァンジェは、三回も身辺調査をされている。カムロ組織が保護・育成を始めた時、女子軍士官学校を受験した時、そして総司令官秘書に抜擢された時だ。
 調査で一番注目されたのは、街娼だった過去ではない。愚連隊に親兄弟が殺された事件だ。
 ヴァンジェ一家は、明らかに狙い撃ちに殺されている。エステルが殺されなかったのは、たまたま菓子を買いに離れていたからだ。祖母は、腰を痛めて残ったために命拾いした。
 ヴァンジェ一家には、愚連隊との繋がりはなかった。愚連隊は、雇われてヴァンジェ一家を皆殺しにしようとしたのだ。だれが依頼したのか? カネの流れをたどれば簡単に割れた。
 エステルが自宅に逃げ帰った時、すでに家財の運び出しがされていた。ヴァンジェ一家が皆殺しになることを知っていた者が、遺産を相続したテイで早々に売り飛ばしたのだ。買い主は、ルイワール公爵家がバックにいるヤクザ不動産屋。売り主は、エステルの叔父だ。
 死んだはずのエステルが街に立っているのを見て、さぞやたまげただろう。無力なエステルの姿に、罪悪感をなごませようと仏心をだして職を世話したのが、文字通りの命とりになった。
 殺人教唆は、殺人と同罪になる。財産目当てで一家皆殺しをたくらみ四人も殺したら、まず死刑だ。だが、裁判に引き出すと、どうしても娼婦だったエステルの過去が明るみにでてしまう。ならば非合法に消してしまおう。これから戦争で大量殺人をしようというレオンに、この程度の殺しをためらう理由はない。

 

 エステルをこれ以上の人間不信にしないため、叔父の件は教えないことにした。だが、エステルは、そんなに甘い人間ではなかった。
 エステルは、レオンとはまた違う種類の怪物だった。自分の心を守るため、他者への共感性を圧殺していたのだ。そうしなければ、エステルは、狂うか自殺していただろう。

 他者への共感性を喪失したエステルにとって、レオン、マーロウ、ローザ、あと数人の友人以外の人間は、モノだった。人間も石コロも同じだ。だから、どんなむごたらしいことでも石を転がすように淡々とこなせた。

 十二歳のエステルにとって『死』は救いだった。ピンク色に染まった街頭に毎日立ちながら、ずっと死にたいと思いつめていた。まだ幼い時期に一年以上もそんな境遇にあったために、エステルは、死を特別視しなくなった。なので平然と人を殺せた。

 もしも、クーデターの時に脱走しようとした同期生がいたら、逃亡を企てた敵として顔色も変えずに背中を斬りつけていたはずだ。周囲は、普段のにこやかで物柔らかなエステルとの落差に驚愕しただろう。


 この世界に四十万人もの軍隊を動員する戦争は、かつて無かった。
 最大の問題は、四十万人を支える補給だった。それまでの補給は、せいぜい荷車に食料を乗せて運び、無くなったら戦地から引き上げるというものだった。レオンは、継続して食糧と武器と兵員を前線に送り続ける兵站という考えを持ち込んだ。
 兵站を構築し補給計画を立てる能力があるのは、レオン=新東嶺風と、天才であるエステルしかいない。しかし、レオンひとりでは膨大な補給計画を支えきれない。兵站は維持できず、補給の問題で四十万人の部隊は崩壊してしまう。

 レオンには、全ての浮浪児を救う力はなかった。役に立ちそうかどうかで、選別するしかない。レオンが非合法のテロまで行使してエステルを助けるのは、慈善や同情ではない。戦争にエステルが必要だからだ。


 これまでの戦争は、いうなれば陣取り合戦だった。戦争は短期で、民衆と切り離された封建領主軍同士がぶつかった。レオンと、その教えを受けたエステルの戦争は、それとは次元が違った。敵を倒すだけでは済ませない。
 レオンの戦争は、千年も続いてきた社会の土台を打ち砕き転覆しようという革命戦争だった。その手段は、国力の全てを戦争に動員する総力戦と、可能な最大の暴力を行使し敵を完全に打倒するまで戦う絶対戦争だ。
 総力戦と絶対戦争の思想をレオンは、隠そうともせずに軍大学校で士官学生に公言していた。
 ⋯⋯ほとんど全員が、思考実験だと受けとめていた。だが、レオンは本気で革命戦争をやるつもりだ。

「共産主義者は、自らの意図や信条を隠すことを軽蔑する。共産主義者は、いっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に戦慄するがよい」(マルクス / エンゲルス『共産党宣言』)

 大国の軍事貴族であるレオンの発言は、諸外国にも伝わった。本気でそんなことを実行するつもりなのか半信半疑だった世界は、現実となったレオンの戦争を目の当たりにして戦慄するだろう。
 それまで中世的な静止した平和が保たれていた。しかし、レオンのあけた蟻の一穴が堤を決壊させた。歴史が動きだしたのだ。その最初の段階が、奴隷解放戦争だ。


 女神歴二十七年十二月十六日。パシテ王宮『王族の間』
 深夜三時に国家の中枢ともいえるこの場所で、儀式が行われた。実質的な意味はない形式的な儀式なので、参加は強制されない。しかし、歴史的瞬間を見ようと、深夜にもかかわらず王宮にいるほとんどの貴族が王族の間につめかけた。
 王座に軍服の国王シャルル一世。王妃座に王位継承順位二位のジュスティーヌ国王補佐が正装で着席している。簡素な服なのに美しかった。王妃座の横には、夫のレオン・マルクス公爵が軍服に帯剣して立っている。勲章を廃し、胸に略章を付けた。国王の斜め後ろに王位継承順位一位のジョルジェ第五王子、ジュスティーヌの斜め後ろに王位継承順位三位のシャルロット第五王女が着席している。
 フランセワ王家直系の王族は、四人だけだ。一カ月前には、九人いたのに。三人殺され、一人自殺し、一人は敵対国に追放された。父と兄たちを惨殺されたフランセワ王家の、領主貴族に対する憎悪は深い。
 時間がきた。ローザ・ノーブル秘書官が澄んだ声を上げた。
「公爵レオン・ド・マルクス総司令官。国王陛下がお召しです」
 以前のレオンだったら王座の間から飛び降りたかもしれない。しかし、四年も王宮暮らしをしているうちに、横に回って階段を降りる程度の常識は身についた。
 国王の前に立ち、軍司令官として呼ばれたので、軍隊式の胸ドンの敬礼をする。
「レオン・マルクス。お召しにより参じました」
 シャルル一世国王が、小さくうなずいた。
「総司令官、我が軍の準備は完了したか?」
「全軍、準備が完了しております」
 再びシャルル一世が、うなずいた。数秒間目を閉じる。やがて口を開いた。
「フランセワ王国軍総司令官に命ずる。フランセワ王国軍は、予定の行動を開始せよ」
 レオンは再び胸ドンの敬礼をした。「とうとうやった⋯⋯。やってやった。戦争だ!」。
「フランセワ王国軍は、四時より西方領主領地域において作戦行動を開始します」
 いつの間にかレオンの斜め後ろにエステル・ヴァンジェ軍曹が立ち、公文書用の用紙を広げている。
「総司令官命令⋯⋯⋯⋯⋯⋯えぇっと⋯⋯?」
 レオンは、毎日数千の書類の山に埋もれている。いい加減訳が分からなくなってきた。エステルが、秘書の仕事をした。
「⋯⋯第九十二号です」
「総司令官命令第九十二号 西方方面軍は本日四時より所定の作戦行動を開始せよ」
 開戦命令をエステルが筆記し、レオンに捧げ渡す。受け取ったレオンは、指輪になっている総司令官の印章をこの紙に押印する。この瞬間、戦争が始まった。もうだれにも、国王にさえ止めることはできない。

 実際には、前日には全部隊に、そして敵にも、開戦の最終命令は伝わっている。既に一部では戦闘も始まっている。

 三百年ぶりの本格戦争だ。予定の儀式が終わると王族の間は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 内務大臣
「フランセワ王国は、戦争状態に入った。総督、代官、街区長、村長等の自治体首長に、軍にあらゆる便宜をはかるよう通達しろ。赤軍の編成に協力を惜しむな」
 外務大臣
「フランセワ王国軍は、西方地域を占拠している武装集団に対し戦闘を開始した。我が国は戦争状態にあると各国大使館に通告しろ。ブロイン帝国大使を呼べ」
 大蔵大臣
「大蔵省徴税徴発部隊は、軍部隊に追随し、領主貴族が隠匿した財貨・物資を没収、後送する。金銀貨のみでなく絵画や宝石類も没収せよ」
 法務大臣
「武装法務部隊は、西方地域において奴隷とされていた者に対する犯罪の証拠を収集し、犯人の身柄を確保。軍人は軍法務部に引き渡し、民間人のみを後送する」
 文部大臣
「全ての高等学院は、午前の授業で、この戦争の意義について特別講義を行う。本日以降、体育は軍事科目とする。健康な男子には、放課後二時間の軍事教練を義務づける」

 熱に浮かされたような狂騒の王族の間で、宰相のラヴィラント伯爵だけが唯一冷静だった。
「宰相官邸において、関係省庁の戦争政策調整会議を行う。各省事務次官は八時に集合」


 たった今、レオンに開戦を命じた国王シャルル一世は、王座からこの騒ぎを目の当たりにして内心激しく動揺した。本当に内戦を避けることはできなかったのか? 無理だ。個人の力ではなく、なにか大きな流れが、この国を戦争に引きずっ ていった。

 儀式を終えたレオンとエステルは、さっさと総司令官執務室に引き上げた。

「なあ、エステル。王宮前に街路樹は何本くらいあると思う?」

「分かりません。数百本ではないでしょうか?」

「全然たりねぇな。全ての敵を吊すには、数万本は必要だ」

「⋯⋯はい。おっしゃるとおりです」

 


 カラン! カラン! カラン! カラン!

 王宮の外で、振り鐘を鳴らしている音がする。新聞屋をまかせられているレオンの手の者が、印刷を終えていた号外を出したのだ。一緒に『赤軍宣言』と『戦争宣言』を配っている。
「開戦! 開戦! 戦争だよ! 国王陛下とレオン総司令官が、奴隷使いどもを退治するよ! 開戦っ! 奴隷解放戦争だーっ!」
 目を覚ました群衆が王宮前広場に集まってきた。なにか叫んだり手を振ったりしている。日が昇るにつれてどんどん人が増え、群衆は数十万人にふくれ上がった。
 ギリギリまで戦闘訓練していた後衛の赤軍部隊が、赤い軍旗を掲げ革命歌『同志よ固く結べ』を高唱しながら王宮前を通って戦場に向かう。人々が花を投げ、喝采を送る。
 この曲は、奴隷解放の歌としてレオンが作詞したことになっている。『プロレタリア』とはなんなのか、この世界で知っているのはレオンしかいない。

 同志よ固く結べ 生死を共にせん   
 いかなる迫害にも あくまで屈せず
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 固き敵の守りを 身もて打ち砕け
 血潮に赤く輝く 旗をわが前に
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 朝焼けの空仰げ 勝利近づけり
 搾取なき自由の国 たたかいとらん
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 暴虐の敵すべて 地にひれ伏すまで
 真紅の旗を前に たたかい進まん
 われらは若き兵士 プロレタリアの


 歴史を前進させようとする『正』の流れと、それを止めようとする『反』の流れの衝突。個人の思惑を越えたこの対立・闘争から、どのような『合』が導かれるだろうか。
 しかし、紙幅がつきた。それらを書くのは、次巻以降にしよう。

『異・世界革命Ⅲ』に続く