よくテレビの批判でゲーム脳、みたいな事を言われますね。

先日のイギリスの暴動もどこかのアナリストが「GTA」という暴力のゲームの影響で10歳とかの子供まで暴動に参加してる、なんてしたり顔で語ってました。

そもそもGTAは年齢制限がかかってるので10歳の子供があそんで良いゲームでは無いんですけどね。
間違いなく親なりが買い与えているものでもこの手の議論の場合親の責任は問われないんですよね。
なんでだろう?

まあイギリスの暴動はその親までちょっとアレな感じの家庭で、親の責任というより勤労意欲を育てようとしなかった悪政の問題が大きいんですけどそれはまた今度。


さて、残虐なテレビゲームで遊ぶと犯罪者になる、なんて論調は結構ありますよね。
自分は昔からゲームが好きでジャンル問わず結構遊んでいる方だと思います。

当然残虐なゲームも遊びますし、前述にあったGTAも遊んでます。

GTAというのは車泥棒というタイトルで内容も犯罪を犯す事が前提のストーリーです。
でも私はGTAで散々車盗んだから現実でも車盗んでやろう、なんて思った事無いですよ。

大体こういう事件を起こす人はゲームを遊んでても遊んでなくても関係なく事件を起こすと思うんですよ。
たとえばクライムムービーなんかはゲームよりよっぽど酷い表現のものもありますし、小説なんかも結構えぐいのありますよね。
現実社会のニュースなんか調べると吐き気がするような事件も沢山あります。

しかし大体この手の事件が起きるとやり玉にあがるのはゲームなんですよねぇ。
まあ勝手に責任押し付けやすい上に大した反論も出ないからだろうなぁ。

そしてこういう人たちって大体自分たちは棚に上げるんだよなぁ。
批評家やアナリストって考えの狭い人多いですよね。
戦争ドキュメンタリーを見て思い立って書いてきたこの記事も最後となります。

日本は敗戦国ということもあってか子供に対してあまり戦争の事を教えていないように感じます。
実際戦争終了後はGHQによる統治で教育も全て失われた事もあります。
また米・中が積極的に行って来た日本に対するプロパガンダを真実として日本に受け入れさせようとしていたものが完全に払拭されてないのもあるでしょう。

実際戦争は終わったのだし中国・韓国に対する物もあるのでしょうが、それとは別に戦争と言う行為が少しでも「美談」になってしまわないように配慮してる事もあるのかもしれません。
しかし悪い事も良い事も全てが教育だと思います。

そして何より日本は戦争に対し贖罪も賠償もしてきています。台湾・中国には莫大な賠償金を払って来ている経緯もあります。
いつまで日本は侵略者の嘘つきだとレッテルを貼られなければいけないのか?

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私は陸軍のとった満州事変の行動が善いことだったとは思いません。
しかしこれが陸軍の暴走であるとも思ってはいません。
少なくとも最前線に置かれた関東軍にとっては正しい行動だったと思います。

当時の内閣がもう少し早い段階で満州での問題に対応し、解決の道を考えていればおきなかったであろう事件です。

それでは爆破事件後の日本と満州を考えていきます。


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ついに起こってしまった日本による満州制圧に向けての軍事行動。
すでに政府との信頼関係が破綻していた陸軍は内閣の戦闘の不拡大には従わずに作戦を続行する。

日本関東軍の綿密な計画は迅速に進んでいった。

18日に起きた柳条湖事件からわずか1日で三都市を制圧。
張学良は奉天を放棄し錦州へと拠点を移す。
奉天には土肥原賢二を臨時市長とする奉天市政府が成立させる。

20日には朝鮮族が多く住む吉林省において特務機関が不穏状態を作る。
三都市を制圧したとは言え張学良の兵数45万に比べ関東軍はわずか1万、南に控えている朝鮮軍を満州に引き入れる為の口実つくりであった。

21日、陸軍外相は一連の行動を日本の自衛行為と強調するも、閣議で朝鮮軍の派兵が却下される。
しかし朝鮮軍を率いていた林銑十郎指令は詔勅をまたずに越境し満州に入る。
当時天皇の詔も無く部隊を移動することは重罪で死刑もあった為、陸軍次官が当時の若槻首相の元を訪れ即時の天皇陛下への上奏を要請する。しかしそれを受ければ独断で行動した林指令に同調する事になり、総辞職もありえるとした若槻首相はこれを断る。

しかし翌22日にはすでに出動したものはどうしようも無いとして朝鮮軍の増派兵を事後承認する事となる。

23日には満州民族の学者、羅 振玉が清朝の復興支援を関東軍に求め、モンゴル等各王族の決起を求めて回った。

すで陸軍の行動を内閣ではコントロールできない所まで来ていた。
この後も陸軍の行動に引きずられるようにして満州事変は進んでいく。

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米国のスティムソン国務長官は外務省に奉天で戦線を止め、錦州には拡大しないよう約束を取り付けてた。幣原外務大臣もこれを了承し、スティムソン国務長官は記者団に日本の意向を発表していた。
錦州には張学良が居たが、同時にアメリカ・イギリスの権益にも侵害する恐れがあるからである。

しかし10月8日、その決定が関東軍に届く前に錦州への侵攻が石原莞爾によって行われた。

スティムソン国務長官はこれに激怒、幣原外務大臣がすすめていた米英との協調路線は崩れていったのである。

11月には満洲民族である清朝の復興を条件とした満州国家成立の為、満州での各実力者の独立政権を作り、それを受け皿とする国家作りを進めていった。
清朝のラストエンペラーである溥儀を満州国皇帝として迎える事を約束し、同13日には日本軍に迎える事となる。
関東軍による満州新国家樹立を目指す動きはほぼ確実となる。

その後も国内政治は混乱し財閥を巻き込んでの経済悪化が始まる。
内閣内でこの事態を収めれるものが居ないまま12月11日若槻内閣は総辞職を決める。

若槻内閣崩壊後の犬養内閣では満州問題の解決を陸軍と強調して行う路線に変わった。
また財政政策も代わり前政権で散財していた三井財閥始め各財閥は巨利を得る事になる。

2月始めには満州全域を支配、関東軍が積極行動をとり始めて半年足らずの1932年3月1日、溥儀を始めとした満州人による国家、満州国を宣言、6月には満州国を内閣で承認、9月には日本の関東軍の駐留と既得権益を守る条約を満州と日本で締結した。

それも満州事変の当の本人である張学良が不抵抗を貫いた為である。
それは国民党の意向でもあったとしている。

翌年1933年5月31日、河北省において停戦協定が結ばれる事になり、満州事変の戦闘行為は全て停止する事となる。

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その後日本は満州国における摂政政治、傀儡国家を指摘し満州国を認めない調査報告を国連で採択され、国連から脱退する事になる。

満州国は日本の技術投入により急速なインフラ整備が整い、アジアでも有数の近代化が進む。
経済的にも大躍進し、満州国は一大国家となった。

この時の経済発展による資金は全て日本から出ており、満州を支配時に張学良が得ていた国家予算レベルの莫大な資産は張学良個人の持ち物になった。
というのも満州は政府を樹立しておらず、満州の民や日本の権益を侵して手に入れた収入は全て張学良の個人資産であり、行政は張学良の家臣、奉天軍は張学良の私兵であった。

日本関東軍は陸軍規定を守り掠奪を働く事はなかった為、張学良の個人資産はそのままと言う事になった。


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1945年8月9日、第二次大戦終結直前にソ連からの侵攻を受け満州国は崩壊。
8月6日・9日に原子爆弾による壊滅的な被害を受けていた日本にすでに戦闘の意思は無かったが、すでに欧米とソ連で秘密会談で満州北側の権益を受ける事を約束されていたソ連は大戦終結前に少しでも多くの権益を得る為に北方領土等の侵攻を強行した。

これに対し日本は既に降伏を提示していたが侵攻はやまず停戦交渉の末全ての戦闘が終了したのが26日であった。
この際すでに日本軍は解体されており現地に残った民間人はソ連側に抑留、男性は人扱いされないような過酷な労働に出され、女性は語るも無残な暴虐にあう事になる。

通化事件のような無残な事件がおきる事になる。

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その後中国国内での国民党と共産党の戦争により相当数の中国国民に相当数被害を出し共産党の勝利を持って満洲は正式に中華人民共和国の領土となった。
日本が推し進めていた満州国の近代化は図らずも中華民国と共産党を大いに助ける事となった。

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満州事変を日本が起こすきっかけとなった張学良は奉天軍という私兵を抱えまた途方も無い資産を持っていた為中国国内でも大きな立場に居た。
その後西安事件を起こし結果的に蒋介石に対しクーデターを起こし共産党との共同路線をとることになる。

その後国民党が敗れ、蒋介石が台湾に渡るのに同行するが50年以上の間軟禁される事となる。

蒋介石の死後、次第に行動が自由になり1980年後半には李登輝が進める民主化におされメディアへの露出も出始める。1990年にはNHKの番組にも出演。
満州での事件は日本の挑発にならない為不抵抗を貫いたと発言、その方が日本が不利になると判断したとしている。更には「一生を日本に台無しにされた」「日本は武力によって侵略した」と発言している。しかし当時の奉天軍による挑発活動を考えれば張学良の軍事的な判断は特に重要視されていなかったのかもしれない。

その一方で当時アヘン中毒だった事を隠さず「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。
その後中国には戻らず1991年にホノルルに移住、2001年に死去している。

張学良の批評は二分しており、共産論者からは中国を共産化した英雄と讃えられるが、反共論者からは父の跡を継いだだけの無能者との声も多い。
その理由に若くして満州の将軍となった後、本人も語っていたようにアヘン中毒であった事。更には連日女におぼれ目ぼしい美女は狩るという典型的な悪権力だった為である。

また戦闘に於いてはほぼ敗戦続き、政治も特に何かを為した事が無いとしている。

国民党関係者からは西安事件を起こした重犯罪者というような論じ方もある。

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この満州事変において日本陸軍は圧倒的な行動力で満州を占拠します。
この時スムーズに事が進んだのは陸軍が優秀だったと言うだけでなく、蒋介石の路線が排日よりも国内の安定として反共を優先させていたというのもあると思います。

満州事変後には張学良が西安事件という蒋介石を拘束する事件が起きて、国民党と共産党協同で反日路線をとるように説得、これを蒋介石が受け入れ再び日本と中国で戦争状態に入る事になります。

とにかく張学良の日本に対する私怨は異常とも言うべきであり、また財力だけは持っていた為そこに群がる人力も持っていたから日本にとってはかなり厄介な存在で会ったともいえます。

ちなみに頑なに共産党との合意を拒否していた蒋介石の態度がなぜ変わったのかは、全ての関係者が口を堅く閉ざし、現在事実をしっている人がいなくなってしまった為に歴史上の謎になっています。

現在の中国は共産党という大きな力で成り立っていますが、そのきっかけを作ったのが張学良であり、また近代の混乱の歴史の原因の多くでもありました。

その彼が大きな戦争責任を問われず2001年までの人生を全うできたと言うのは驚きでしかありません。
それも張学良が持っていた多くの財産と私兵に因るものだと思います。

日本の関東軍は満州を占拠・新国家を樹立時に、かつての満州の税金による財産を張学良から掠奪しなかった事は当時の日本陸軍がいかに高い意識を持って行動していたかがわかります。
それは満州国での安定したインフラ整備を見てもわかりますが、満州国は着実に近代国家に成長していました。
人口が満州事変直前には3000万人だったのが1941年には5000万人と飛躍的に人口数も上がっているのもうなずける結果です。

満州族の人たちは日本に感謝の意があり、日本の傀儡政権も悪い事ではありませんでした。
しかし樹立前から存在した反日運動や、移民が増えていた為の移民問題で日本に対する悪感情があったのも確かです。

そして国連を脱退した日本はもはや孤立無援の状態となり満州を制圧して、その実態がどうであれ諸外国に認められる事はありませんでした。
国連を脱退する事を決定付けたリットン調査団の報告書に対する採択でも、満州国は解体しても日本の権益は尊重するという条約を結ぶ提案を受け入れなかった日本は、自分達の正当性を満州国という形で示したかったのもあると思います。

それは満州という土地を守ってきたという自負があったからかも知れません。

言論統制が行われていない日本で、この満州事変を「陸軍の暴走」としか捕らえられていないのは当時の方たちの苦労も水泡にきしてしまうような気がします。

後の太平洋戦争開戦、南方資源を目指し財閥含む目先の利益のみを考える人間が跋扈してしまうような戦争のきっかけにもなっている為、この満州事変が「善かった事」とは言いません。

しかし彼らは暴走などの感情のみで行動したわけでもなく、また私服を肥やす為の残虐な略奪行為などでもなかったのです。

そうでなければ張学良はその財産力で中華民国でのポジションは得られなかっただろうし、奉天市は恐ろしい行状になっていた事でしょう。

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満州事変における考察は以上で終わりとなります。


私は戦争を放棄している今の日本が大好きだし、今後も戦争と縁の無い国であればよいと思います。
それを思えば日本の敗戦は今の日本がある為に必要なものだったと言えるかも知れません。

しかし満州事変での関東軍には今の日本には無い誇りを感じました。
暴走、独断、確かにそうかも知れません。
しかし内閣が頼りにならない状況で満州に駐留してる軍隊が満州における日本を守る為に戦うのはそれほどおかしなことではないように思うのです。

外交に頼れない為謀略が多く確かに汚い作戦になったかも知れませんが罵られる事でも無いと思います。なにより当時の戦争ではどこの国も暴虐を履行していたのですから。米・露も史実にあるだけでもかなり酷い事をしています。
しかしこれに関しては時代だったと言う他ないかもしれません。
日本の戦国時代なども英雄と呼ばれる大名のほとんどが現在では狂人の所行と言われるような事の一つや二つは行っています。

しかし政府からの手助けがもう少ししっかりしていれば満州事変を起こす事もなかったかも知れません。そしてその後の第二次大戦も無かったかもしれません。

日本を戦乱に導いた満州事変、しかし事変前の内閣や善後策失敗こそが戦乱を導いたともいえます。
内閣が正常に機能しなかったのは事変後も続き太平洋戦争にまで発展します。
戦争と政治は切っても切れない関係があります。

今生きている私達は戦争を教訓にこれからも生きていかねばならないと思います。


最後ダラダラと収集がつかなくなってしまいました。
ここまで読んでいただけた方、ありがとうございます。

最初にも述べていますが、これは一個人の考察です。
歴史的なものも公開されている範囲でのまとめなのでご了承ください。
結局終戦記念日すぎても終わらなかったこのシリーズ。
まあ特に閲覧数のあるブログじゃないし気長に行きます。

日本側が主張する満州事変の直接の発端である中村大尉殺害事件。
日本関東軍が問題視したのはいかにスパイであったとは言え、裁判・日本への通達も無くスパイであれば重要であるはずの諸々のものを全て殺害した部隊が隠匿した事であります。
条約で決められたものを守らないどころか数々の挑発行為に加え、軍閥による強盗まがいの事が横行していたのです。

それに対し日本政府は対応外交によって抗議、対応するも中国政府とはなんら解決の糸口が見えない状態でした。
関東軍は事ここに至ってもはや猶予なしと判断、兼ねてより計画していた満州国の設立・日本による摂政政治で満州での権益と国民も守る事を決断したのです。


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満蒙問題と軍部の主要ポストに於ける人事を研究していた一夕会。
一夕会は内閣の軍縮路線とは別に満蒙問題の解決は武力によるものでしか解決できないと考えていた。
この時既に軍中央部の主要ポストは一夕会において相当数占められていた。
内閣に諮ることなく満州を制圧する計画を着々と進めている中起きた中村大尉虐殺事件。

関東軍は陸軍将校が殺害されたこの事件と経緯をもって満州事変の計画実行を決断する。

張作霖を暗殺した河本大佐の後任に一夕会メンバーの板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐。
この二人の首謀で満州事変は始まったのである。

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昭和6年9月18日、南満州鉄道の路線上で爆発が起き、関東軍はこれを張学良率いる中国東北軍の仕業と断定、すぐさまに中国東北地方の占領行動に移る。
実際にはこの爆発は関東軍の自作自演であった。

爆発現場である柳条湖近くにある中国国民軍の兵営を爆発の混乱に応じて即時占拠。
一気呵成に奉天、長春、営口の各都市を翌日までに占拠した。奉天には奉天特務機関長土肥原賢二大佐を臨時市長に据える。
この土肥原は特務機関という性質上謀略が得意で特に中国国民軍・蒋介石には嫌われていた。
特務機関というイメージとは別に軍規に厳しく「中国民衆から徴発するな、部落を焼くな、女を犯すな」と部下に言っていたという。また個人名義で奉天市の運営経費を借金するなどした為本人は質素な生活をしていたとも言う。
贈賄・強奪・怠慢が当たり前の中国に於いてこの土肥原という軍人はかなり異質に映ったことであろう。
土肥原は戦後、満州での特務機関としての働きによりA級戦犯として処刑されている。

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翌19日7時には陸軍省にて首脳会談が行われ満州における戦闘行動について関東軍の戦闘は至極当然と増援派兵の意思決定が即座に行われ内閣に提議されることが決まった。
しかし同日10時の閣議では南次郎陸軍大臣は増援の閣議を提出できず事態不拡大という内閣の方針が決定される。
陸軍は作戦課は満州問題の解決の為の動機が合意され、条約によって正当に得ている既得権益の確保が目的であり満州全体における軍事的占領ではないとされた。
同日午後には作戦課は関東軍の停止は不可とし、派兵を内閣が承認しないのであれば陸軍大臣を辞任し内閣の瓦解も辞さないとした「満洲における時局善後策」を作成、参謀本部の承認を得る。
関東軍の行動を承認、満蒙問題の解決に尽力しないのであれば陸軍によるクーデターも辞さない決意だったのである。

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この時内閣は満州における戦闘の不拡大を決定します。
それは国連加盟国である日本が友好を築き上げるべき国に対する侵略行為になってしまうからです。
しかし条約に守られているはずのものを一方的に破棄し、前時代的な捏造・侮蔑・強奪行為を繰り返す中国側に満州は疲弊しきっていたのです。
はっきりと言ってしまえば当時の内閣は一つの決断もする事ができない程に機能が低下していました。
今現在の政権でもそうですが、保身と弱い外交で国民を守る事はあまり優先されていませんでした。

不拡大を決定した翌日も陸軍軍事課、作戦課は内閣の決定は尊重するが陸軍の作戦行動は続行するとし、それによる政府の崩壊も気に留めないとしています。

こうした陸軍の動きは確かに独断ではあります。
しかしその独断を決意させたのは政府であり内閣でした。

満州事変はさらに止まらない速度で加速していきます。