ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教は初めに神様がいて、天を造り、地も作り、植物や動物、人間までも造ったというところから、始まりますが、

日本書紀からの記述です。

 

 

重濁(じゅうだく)の凝竭(ぎょうけつ)すること難(かた)し。 

故(かれ)、 天(あめ)先(ま)づ成(な)りて土(つち)後(のち)に定(さだ)まる。

然(しか)して後(のち)に神聖(しんせい)其(そ)の中(なか)に生(な)れり。

口語要約は次の通り

昔、天地も陰陽も分かれず、渾沌のさまは鶏の卵のようで、ほの暗さの中に物事が生まれようとする兆しを含んでいた。

それの澄んで明るいものが薄くたなびいて天となり、重く濁ったものが固まって土となる際に、

澄んだのが丸く集まるのは容易だが、重く濁ったのが固まるのはむずかしく、天が先にできて、のちに地が定まり、

そのあと神がその中に生まれた。
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宇宙法界は、陰陽も分かれずというのが、仏教的真理と全く同じです。 地球内部を私たちは真っ暗だと思っているが、地球内部は、一つの卵のように、中心は核があり、重力で固めれた鉱物は熱を出し光を放っていると言われています。 エメラルドグリーンの様な層もあると言われています。 鉄も空気に触れるから赤くさびるのです。 圧力がかかっている内部では赤くはない、マグマは,ドロドロしていて圧縮されているから、熱を持っている。 地下もウルトラマンに出てくる光の国でもあると言えます。 そういう中から神が生まれたというのが、古神道で、多くは山、河, 岩、大木など神が宿るという自然崇拝が基本の様です。  神道の神様は切り捨てるのではなく全て仏教の守護神、菩薩様とあがめ、天照大神や八幡神などの本地は釈迦如来や阿弥陀如来といったように、日本に降誕した神様は如来の垂迹とし同化されてきました。

仏教はどのように説かれているかというと、仏教は仏や神が天地や人を造ったとかそういう話はありません。  日本書紀で説かれているように、 法華経でも陰陽を分ける事はありません。  因があって、果になるわけでも、迷いがあって、迷いを完全に脱したら、悟りに至る事ではないという事です。


非因非果 非迷非悟  非美非醜 非善非悪  非陽非陰  非生非死****FTC

日蓮聖人は

至理は名無し聖人(久遠実成釈迦牟尼仏) 理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り

之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果

同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如

来と成り給いしなり と話されています。 

 

久遠に聖人は宇宙にはどちらとも言えない、不思議な理法がある事をしり、この理法を妙法蓮華となずけ、妙法蓮華を師として修行をされた。修行すれば覚道をし、妙覚果満の如来となられた。 いわゆる妙法蓮華を具足している如来です。  如来となった仏様はそれで終わりではなく衆生に妙法蓮華を説きます。 法華経からは、インドに出でた仏陀世尊は一大事の因縁の為に人の姿となって、娑婆世界で法を説かれた仏様です。

 

全知全能の神が全てを造ったのならなぜ悪の行為をする人間を造り、天国から戦争ごっこをするのを楽しんでいるのか?  西洋諸国は神の名において他民族と争い続け、植民地などで搾取をしてきた。   そういう神様にはどうしても、私は馴染めない。  

 

神道も仏教と争うのではなく、仏教も神道の人達に寄り添う形でお互いに日本的信仰を深めてきました。  お宮参りや初詣も寺でもお宮でも気にしません。 やはり長い時間に民族や風習によって、むしろ良い方向に進んでいたと思われますが、明治以降、神仏分離が当時の政府によって、半強制的に行われ、マスコミも真実を伝える事はなくなり、悲惨な戦争に走ってしまいました。

 

先日東京湾観音に上った時に、七福神から始まって仏教の菩薩や如来が祀られキリスト教のイエスを抱いたマリア像までありましたが、特別な抵抗なんてありません。   キリスト教徒でなくても教会で結婚式をしたり、クリスマスだって、メリークリスマス、葬式は仏式が日本人の信仰スタイルかもしれません。  その中から、自分に合った信心を実践していただきたい。 

 

西洋文化を取り入れるのは良いが、大切な日本文化を捨てた所から、多くの人がストレスを感じ、うつ病や精神科に通う人が日本人が一番多いと言われています。    人はいろいろですが、江戸時代の人達は、どうやってストレスが無い生活をされていたのか?

もちろん、現在より、多くのしがらみの中で生活してきたはずです。  どのように思いますか?

 

命に合掌