仏教は諸法無我を説きます。 この言葉から、死んだら我なんかない無になるだけだという方もいるようですが、仏教で説かれる無我は変化しない我は存在しない、いわゆる、絶対者である変わらないアートマンは存在しないという事が仏陀の悟りです。 と同時に仏陀は自灯明を説いています。

我がいないのら、自己は無いという事になります。 車を見たら人は車というが、タイヤやハンドルの様なパーツを見ても、誰も車とはいわない。  人も小宇宙的な周縁五蘊から成り立っています。 

 

 

真理の言葉の中で

自己こそ自分の主である。
 他人がどうして自分の主であろうか。中村元訳
社会の中で多くの人々に伍し、自分が立ち行くために、まず自己を確立し、自律することが求められてくる。教育もその一助となっていよう。しかし、それだけのことを言うのに仏教(広くは宗教)など必要ない。事実、釈尊は今のあなたが主(それは自我でしかない)であるとは言っていない。むしろ、私たちが自分と呼びならわしている自己が良くも悪くも多くの問題を生み出し、煩いと混乱を来たしているのだ。だから仏教は、そういう自分を<世俗の我>と言い、それに対して<真実の我>もあるが、それを知る人は、実は極めて少ないのだ。

禅宗の坊さんが無我の境地を体験するために、頭を空っぽにする修行をされている人もいる。

 

 

どういう事なのか?

人というのは、娑婆世界で肉体の服を着て,娑婆世界で己の心魂を磨いている存在としてとらえれば、神仏の存在や、多くの事は矛盾しない。

私たちの体は五感という意識を通して、脳や心に情報を伝える。 肉体的な脳というのは、パソコンで言えば、ハードデイスクの様な存在で、意識から脳に伝えられた過去からの情報を整理し対処の仕方を肉体の意識に伝え、対処をするが、これは、自己中心的な自我を発生させてしまい、必ずしも正しいとは言えない。   ここで言われる自我というのは、世俗の我であって、真我ではない。  

 

何も考えていない状態で、意識を通じて、きれいだな、とか懐かしいとかいう感情が心魂に深く影響をする。 無我夢中になり 物事に没注すると時間や空間を忘れた状態が、ありのままに観ている状態。  

 

人というのは霊長類の長であり、肉体の内に真我という人(霊界の自分)がいる事を知るのが、吾の心を知るのが悟り。 すでに私たちは地下と天の間の霊界の住人。

 

これを知れば、生も死も、別々に見るのではなく、同じ目線で見る事ができ、神仏に守護されている自己の存在は誰にも代えがたい目的を持った貴重な存在。

 

「華厳経に云はく『一切衆生初生の時、二神が必ず随って生ず。一を同生天と名づけ、二を同命天と名づく。亦、遊行神と名づく。本有倶生神是れなり云々。』



「人の身には左右のかたあり、このかたに二つの神をはします一をば同名二をば同生と申す、此の二つの神は梵天帝釈日月の人をまほらせんがために母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとくつき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をばつゆちりばかりものこさず天にうたへまいらせ候なるぞ。 『四条金吾殿女房御返事』

 

ご縁がある守護神に見守られて娑婆世界で修行をする。 

 

また、コロナに発病する人が増えてきました。  日本人は外国の人に比べると免疫力がある事が、わかりましたが、国が言わない事は、コロナにかかると、後遺症で苦しむ人が5割もいて、半年ぐらい治らない方が報告され、茨木や世田谷区の報告が怖いです。  病気というのは、気の病でもありますが、五黄の年ですから、ここ一年乗り切れば、春はもう少し、来年は少しは良い方向に向かうと言われているようです。

 

命に合掌