婆の葬儀も終わりました。 コロナが終息している時期に亡くなり、気をつけながらでしたが、思い通りの葬儀になったと思っています。
大腿部骨折の手術から始まった、介助が必要な生活は、およそ4年半に及びましたが,私にとっても、多くの人に支えながらの、価値ある人生でした。
葬儀会場は自社の打ち合わせ室,および休憩室を使いましたから、基本的に、テーブルなどの移動で済み会場費用はかかりませんでした。
会場を借りると、飲食の持ち込みは、難しくなることが多いのですが、映像を流したり、足りない料理を若い方が自由に持ち込んでやってくれました。
キッチンの裏側の部屋が婆との生活の場です。 保育園児が5人いて、とっても賑やかで、悲しみの中にも、笑顔が一杯の葬儀になりました。
日蓮宗は在家でも団扇太鼓を使いますが、元気に見送る事が出来ました。 動画や坊さんが帰ってからは、カラオケ、踊りだす人もいて、
明るい、楽しい葬儀になりました。 戦後何とかして這い上がろうとして、お題目に巡り合い、在家でも菩薩行を実践された方です。
人生の目的は魂を磨くことと言われたのは、京セラの会長であった稲盛氏は京都の禅宗の寺の在家信者さんですが、これも法華経からの教えです。 仏教は因果応報をもとにしています。 この世に生を受けたときは誰もが丸裸ですが、受ける環境によって、人生が左右されますが、 それでも必ずしも宿業だけでは決まりません。 この世で、悪業を働いても悪の報いがこの世で全てが消滅するわけではありません。 業は消滅しないというのが、仏教の三世因果の道理です。 この世で他の為に善業を尽くしても、この世で報われない人もいますが、私たちが日々織りなす、善悪の業はなくなるわけではないというのが、仏教の道理です。
大乗仏教は菩薩行を特に重視します。 観世音菩薩などに救って下さいとお願いする事もあるでしょうが、基本的には自ら観世音菩薩の様な心で、苦しみ、悲しみの人へ寄り添って、声を聴いてあげるという事です。 特に法華経からは、常不軽菩薩が強く説かれます。 修行というのは、修業につながる。 自ら具わっている、悪業の罪障消滅をし、丸く光り輝く魂になる事を目的としています。 悪業の消滅ですから、人生は決して楽な事はありません。 楽なら修業になりません。 時には他と議論しぶつかりながら、悪業の角を無くし、清浄な涙で洗い流す。
そういう意味からは、誰もが悪心、が具わっているから、 自ら改心することで良心が輝く。
私も残された人生、最後まで菩薩行の実践をしてゆく覚悟です。 誰もが死は免れない。
命に合掌


