日寛の盗用教学「日蓮本仏論」の崩壊

大石寺は元より、創価学会、顕正会でも日寛に対する尊敬の念は高い。
しかし、日寛の教学は中古天台の恵心流口伝法門を盗用し構成されたものである。それは、つまり、日寛がまとめた“日蓮本仏論”自体、日蓮の教説とはまったく関係のない解釈であることを意味する。

 
由比宏道著『毒鼓の縁』で「日蓮本仏思想は元来、天台本仏思想の移行した即ち天台を日蓮に置きかえた法門」(P208)と指摘している。

 日蓮本仏論者は、こうした説を信じないだろうが、田舎天台とも呼ばれた仙波談林の秘伝、恵心流口伝法門を具に知るものにとって、日寛の教学など、この盗用以外の何ものとも映じない。既に日寛の無謬性は崩壊している。それは、つまり、“日蓮本仏論”という教学自体、後世の捏造であり、祖師・日蓮の教学とは何の関係もないことを意味する。

 近年、日寛『六巻鈔』の研究で、この点を指摘したのは、早坂鳳城師である。師は、著を共にした方であり、親交がある。

参:日蓮本佛論の構造と問題点(一)―恵心流口伝法門との関係を視点として―
  上述のわたしのダイジェスト

師の述懐によれば、ある天台宗教師から、仙波談林の口伝に「天台本仏・釈迦脱仏」がある教示を受けたことがあるという。
 以下、かいつまんで、早坂師の論を紹介したい。

この仙波説とは

<教相> 人:釈迦―脱仏 / 法:法華経
<観心> 人:天台―本仏 / 法:一念三千

とする。 これを日寛は

<日寛> 人:日蓮―本仏 / 法:題目

 日寛がいう日蓮本仏は「久遠元初自受用報身如来(仏)」とするが、こうした言葉は、実は日蓮はおろか、日興、日有の教説にも見られない。
 仙波口伝に

「自受用報身如来は顕本をもって正意となすなり」(『一帖抄』)
 「報身の自受用身をもって顕本の正意と相伝するなり」(『二帖抄』巻下)

とある。
また『御本尊七箇相承』で「この七箇の大事唯授一人の秘伝なり聊爾に口外すべからず」というが、「七箇の大事」は中古天台口伝法門でしばしば言われるところである。
 早坂師が作った対照表は以下のとおり。前者が中古天台(恵心流)で後者が日寛説。

・止観勝法華劣/文底勝文上
・寿量品の内証/寿量品の文底
・自受用報身(天台)/自受用報身(日蓮)
・七箇の大事/七箇の大事
・切紙相承/切紙相承
・本因行の能化/本因妙の教主
・嫡流一人秘すべし/唯授一人秘すべし
 ・五百塵点最初/五百塵点当初

 以上が早坂師が論じるところである。

こうした口伝法門と対照するとき、日寛の教説は、単に天台を日蓮に、一念三千を題目に置き換えただけのまったくの盗用である。日寛は元より天台能化でもあるから、こうした点を知悉していたのだろう。

わたしの管見を述べれば、こうした日寛の教学はしかし、『百六箇抄』『本因妙抄』に現れ、『就注法華経口伝』(御義口伝)なども多用される。そこにはまた、こうした天台口伝に類する記述は頻繁に見られる。日寛が直ちに恵心流口伝法門を盗用したと言うより、要法寺における盗用が、その前提にあるのではないか。もっとも、こうした京風は日有の許を訪ねた左京阿日教や、その後の要法寺僧侶の大石寺流入とも大いに関係するだろう。

 現在の創価学会・顕正会を含む大石寺圏の教学力の低下はひどいもので、上述した指摘を信者が読んだところで「ちんぷんかんぷん」といったところだろうか。
 要は、日蓮本仏論は日蓮日興の段階ではまったく論じられることはなく、日寛が大成した解釈であり、その解釈は中古天台口伝法門を盗用し、天台本仏を、日蓮本仏と言い換えただけのものであたっということだ。今風の言葉で言えば、パクリである。

本尊が偽物であれば、教学まで、この始末。おまけに大石寺僧侶は布教も信者に押しつけて自分たちは何もしない。善意と「信心」を傾ける大石寺の仏(日蓮本仏)、法(本尊)、僧(在家以上の在家)は三宝などと称する代物ではない。
まことにお気の毒というほかない。
 誠実正意、善意と信仰は、いち早く、他に向けることを考えたほうがよい。
また、創価学会も、顕正会も、拝む本尊、学ぶ教学はかくのごときである。大石寺の呆れ果てた様を笑っていられる立場ではない。

 

こうした、間違いを創価学会は知っている。  なぜ知っているのかというと、 創価大学の宮田幸一という教授が一人血脈相伝書をことごとく否定している。  大石寺の戒壇本尊も否定し始めている。  一つには、日蓮聖人の教えに戻す事で、顕正会の追及を逃れたい、それでも、日寛教義から抜け出せないのは創価学会そのものの存続が危うくなる。  変わり身が早い学会ならば、会員の幸福の為にも、今までは大石寺の教えが間違っていたとし、日蓮宗の信徒教団になる事のみ、救われるし、それが出来れば、創価学会の意義はあるが、難しそう。

 

命に合掌