此れのみならず、日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。

 

 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば、最前には破し給うべきと強いて申して候いしを、軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として、其の跡に帰依し進らせて候甲斐に重んじ進らせたる高名と存知候は、聖人や入り替わらせ給いて候いけん、いやしくも諂曲せず、只経文の如く聖人の仰せの様に諫め進らせる者かなと自讃してこそ存知候え。

 

まず日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来と興尊は言われています。

日蓮聖人が本尊としていた釈迦像を日朗が持って行ってしまった。 実長は新たに釈迦仏を造立したが、脇士のない一体の釈迦仏ではだめだ、四菩薩を造立するには、お金がかかるから、子孫のうちに、余裕が出来るまでは、日蓮聖人が書かれた自筆の本尊を掲げなさいと言われている。

 


如来滅後五五百歳始観心本尊抄   学会の漢文のウソ読み、の と をの違い 本師釈尊を脇士にしてしまうような、地涌の菩薩はない。

 


此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し月支震旦に未だ

此の本尊有さず、日本国の上宮四天王寺を建立して未だ時来らざれば阿弥陀他方を以て本尊と為す、聖武天皇東

大寺を建立す、華厳経の教主なり、未だ法華経の実義を顕さず、伝教大師粗法華経の実義を顕示す然りと雖も時

未だ来らざるの故に東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず

 

 

本門の釈尊の脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し

 

釈尊の脇士が十大弟子なら、仏陀を現す、正法時代、 釈尊の脇士が、文殊菩薩や、普賢菩薩ならば、像法時代、末法は釈尊の脇士が上行等の四菩薩になる。  日興上人は観心本尊抄の教えから、脇士の四菩薩が、ない釈迦仏はダメだとされた。

 

ちなみに、日蓮聖人は

釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり 一体仏であっても 認められている。 自身が日蓮聖人の弟子となって、釈迦牟尼仏を拝すれば、地湧の菩薩という境地、所詮本尊は対鏡として安置しているもので、心の内に釈迦如来に住んでいただくのが宗祖の教え。

 

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を

受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う

 

我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり   教主釈尊をないがしろにしてしまう、正宗、学会員は一人一人考えていただきたい。  

 

 

南無妙法蓮華経

 

命に合掌