創価学会員の方、そして、日蓮本仏論を掲げる間違っている教えから抜けられない方、富士門流の大石寺(現日蓮正宗)は

日興→日目→日道  大石寺

    日目→日郷  久遠寺

    日目→日尊  要法寺 

 

大石寺の日道の書で、三師御伝土代 です、この書に

日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之を記す。とあります。  御遺告を守れない者は、富士門流ではない。

http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/yousyuu/yousyuu5_1.htm

 

「日蓮聖人は本地是れ地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり。

 

日蓮聖人の本地上行菩薩というのは、久遠実成教主釈迦牟尼仏のお弟子です。

 

日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。
本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。
法を云へば妙法蓮華経の涌出寿量以下の十四品、本極微妙、諸仏内証、八万聖教の肝心、一切諸仏の眼目たる南無妙法蓮華経なり、弘通を申せば後五百歳中末法一万年導師なり何ぞ日蓮聖人の弟子となつて拙くも天台の沙門と号せんや

 

ちゃんと、本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏なり。といわれてますね。  お弟子は天台の坊主というなといわれても、宗祖は天台法華宗から独立したわけではなく、当時は天台法華宗の中の 法華宗本門派、とか法華宗日蓮派でした。  宗祖が立正安国論を提出したときは、天台沙門と名乗っています。

 

明治まで天台法華宗はありましたから、法華宗を名乗る事は難しかった。 学会の方々は、すでに後世の大石寺の坊さんに騙されています。 仏教です大事な事は仏法僧です。

 

日朗上人御申状に云く天台の沙門日朗謹て言上、法華の道場を構え長日の勤行を致す云云。冨山仰に云く、大聖は法光寺禅門、西の御門の東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給ふ、諸宗の首を切り諸堂を焼き払へ、念仏者等と相祈りせんとて山中え入り給ふぞかし、長日謹行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化、天地雲泥の相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながら誤つて天台沙門というや。
日昭上人御申状に云く、天台の沙門に日昭謹て言す、天台の余流を酌み、地慮の研精を尽す兵戈永息の為副将安全の為法華の道場を構え長日の勤行を致す等云云。

 

宗祖は多くの御書で天台大師や妙楽大師、そして比叡山の最澄さんを批判なんかされていません。 鎌倉幕府の厳しいおひざ元で布教するのと、田舎の富士や、身延で布教する事は、やむを得ないと私は思いますね。

 

一、脇士なき一体の仏を本尊と崇るは謗法の事。
小乗釈迦は舎利弗目連を脇士となす権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす云云、一躰の小釈迦をば三蔵を修する釈迦とも申し又頭陀釈迦とも申すなり、御書に云く劣応勝応報身法身異なれども始成の辺は同しきなり、一体の仏を崇る事旁々もつて謂はれなき事なり誤まりが中の誤まりなり。
仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く云云、何そ三身即一の有縁の釈尊を閣きて強て一体修三の無常の仏陀を執らんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非るかな。

 

日興は、仏像をダメだとしていない、釈尊の脇士を四菩薩でないとだめよと言われている 曼荼羅にも上行菩薩等の四菩薩も釈迦牟尼仏の脇士になっている。

 

一、日朗上人去る正中の頃冨士山に入御あり日興上人と御一同あり、実に地涌千界の眷属上行菩薩なり、御弟子にてまします貴とむべし●●。

 

皆さんは、日郎上人を地涌千界の眷属上行菩薩なり日蓮聖人のお弟子として貴とんでいらっしゃいますか?

 

天目房の方便品読む可らすと立るは大謗法の事

 

天目房の一派が、現在の本門仏立宗につながっている。 皆さんは方便品を読まれていますよね。 読まないと日興は大謗法だといわれています。

 

一部八巻の如法経は末法に入つて謗法となるべき事。

 

末法には五字に限り修行すべしと見たり、取要抄に云く日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経是れなり

 

といわれても、日蓮聖人は法華経を身延山で大勢のお弟子さんたちに手分けして書写されている。 必要だからやられたのですね。  

 

 

あくまでも妙法蓮華経の受時の為に末法では唱題行が正行であって、、その他の経を読んだり暗記したり、解説したり、書写するのも、妙法蓮華経の受持の為の助行だと言う事です。 法華経は一乗の教えです。  受持成仏♪

 

日興上人は大聖御遷化の後身延山にて弘法を致し公家関東の奏聞をなして三ケ年が間身延山に御住あり

 

離山まで三年間だけだといわれています。 

熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず

これが法華本門の戒壇を願って亡くなられた、 弥四郎国重 だと思われる。  日付けからたぶん、49日に合わせて、宗祖が書いたのだろう、  その後、これをまねて、板に彫り込んだ可能性がある。  この辺りは大石寺が専門家の鑑定に出してくれれば、騒がないで済むのだが?

 

命に合掌