国家資格3(社労士、行政書士、社会福祉士)つをもて余している私の社会保障・労働問題考察 -2ページ目

国家資格3(社労士、行政書士、社会福祉士)つをもて余している私の社会保障・労働問題考察

3つの国家試験合格者(登録をしていない)が語る社会保険や社会保障に関する考察,労働問題に加え、日々思うことを適当に語ります

 先日とあるネットの記事において、児童扶養手当の事実婚認定が厳格に過ぎるという趣旨の内容であり、行政がその裁量にて身分関係を決めるのは、憲法上も含め如何なものかという主張もある事から、改めて社会保障分野におけるそれを考察してみたい。

 身分関係は極めて個人的な事であり、私人同士の合意なり意思に基づき決める事柄である以上、行政(国家)が勝手に婚姻関係や養子縁組をすることは許されないのは言うまでもなく、両人の合意によらないとすれば、裁判に依る他ない。しかしながら、社会保障分野においては、支給対象である配偶者と同列に、婚姻関係の無い配偶者、つまりは事実婚なり内縁関係を含めているのがほとんどであり、規定している以上行政として上記の様な状態にあるのか否かを判断する必要というより、義務が存在している。また、例えば遺族厚生年金の支給対象者である配偶者は法定婚のみと限定する事が、果たして法の趣旨から正しいのかと考えると、それは肯定できるものではなく、配偶者という文言を広く捉えていくべきであろう。そうなると、行政としてはある程度判断基準や材料を決め、恣意的又は主観的な運用の度合い低くする必要が求められる。

 ところで、この様に法の要請として身分関係を判断する必要が行政にはある訳だが、それはあくでも個々の法律の中でのみ通用し、踏み込んで言えば何からの金銭を支給するために判断したのであり、仮に厚生年金保険法上内縁関係が認められたからと言って、他の法律においても同様の効果が無いのはもちろん、民法上の身分関係まで到底及ぶものではない。更には、この年金分野には、重婚的内縁関係なる言葉が存在する。要するに、法律上の婚姻関係は継続(離婚していない。)しているものの、その相手とは長年同居はもちろん金銭的、精神的、肉体的繋がりは無く、別な相手と婚姻関係の様な状態にある場合、元の法律婚が形骸化していれば現に婚姻関係と同視できる方を配偶者とする概念でる。これはまさに、行政が法律上の配偶者とは離婚状態にあり、現にいる相手の方が婚姻関係を判断できるので重婚を回避するためとも言え、相当私生活に踏み込んだ判断であろう。なお、法律上婚姻が認められていない3親等以内の男女をその時代背景、地域性等に基づき内縁関係とした裁決例もいくつかある。(この判断は同様判例が出た後ではあるが。)これは、最早民法上の身分関係を超えての判断であり、ここまで踏込む事には異論もあろう。しかし、前提として社会保険上の給付の支給要件判断にのみ有効であり、法の趣旨や目的からも要請されていると見るべきである。
 そうなると、行政が支給要件等判断においでのみ身分関係を決することは妥当と言えよう。
 次に問題となるのは程度の問題、何をもってして事実婚なり内縁関係とするのかである。これに関しては大きく差があるのは事実である。上記で示した、年金の給付は最もその認定が厳格であるものの、例えば健康保険の被扶養者では、協会けんぽ(日本年金機構)の要件判断の材料は戸籍と住民票のみである。要するに互いに重婚でなく同居していれば良いのである。この運用では、いわゆる同棲も結果としては(当人らは内縁関係と認識していると思うが。)認定されることになる。ただし、健康保険組合はこれより厳格な所も多い点と被扶養者となれば原則的には国民年金の第三号被保険者になる点も付言しておきたい。更に例を挙げると、国民年金の免除を審査するに当たり被保険者に配偶者がいればその者の所得も含める訳だが、配偶者が離婚状態で数年に渡り一切連絡を取っていない等にまで配偶者の所得を含めるのかという問題あり、これまでは保険者の判断にて除いていた。所が、厚労省が示した解釈変更により、上記の様な状態であっても行政が身分関係を決めるのは、私人関の自由に委ねられている以上相応しく無いとの理由から覆した事例もある。これは事実婚や内縁関係の逆である事実離婚とでも表現する事柄に関するものではあるが、ある意味行政が身分関係に介入しないと判断した珍しい案件ではある。(個人的には、戸籍上は配偶者がいたとしても音信不通なり長年絶縁状態であるならば、配偶者の所得は含めないのが法の趣旨に適っていると思う。)
 このように、個々の法律なり制度によりその考え方は大きく異なり、金銭的給付なのか、現物給付なのか、それとも支払いの義務を減免するのかにより変えているとみるべきであろう。 ここで、この記事のきっかけとなった児童扶養手当の事実婚認定を俯瞰すると、概ね親族以外の異性の同居や定期的な訪問と相手方からの援助という2つの要件を柱に個々の事情に基づき判断している様だが、シェアハウスに異性がいたという理由から事実婚と判断した事例がある事から、厳格な事実婚なり内縁関係ではなく、ともすれば社会に一般にいう恋愛関係を事実婚と捉えているのだろう。ちなみに、児童扶養手当における事実婚認定する意味合いは、不支給にするか否かである。これまでは事実婚や内縁関係と認められることにより恩恵を受ける訳であったが、児童扶養手当においては不支給という不利益処分に繋がる事に特徴がある。

 長くなってきたので次回に続きます。

お久しぶりです。忙しく中々更新出来ませんでした。
さて、今回のタイトルですが、タイトルだけ見ればどことなく映画なり漫画のキャッチフレーズに使われそうな気がするところ、非情な意味合いとなっています。
前回の記事について、ある方に意見を伺った際にタイトルの言葉言われました。その方いわく、日本人は真面目であるが故、間違った方向にも全力で向かってしまい、一度大コケし、反省し、180℃別な方向に再度全力で向かうことの出来る民族であり、もしかしたらある種カタストロフィを楽しんでいる可能性もある。そうならば、今後格差なりの諸問題で間違った方向に進み、多大な犠牲を払う事となったとしても、必ず再起出来る上、国民性としては皆が大変な状況になった時にこそ真の力が発揮される。そうすると、今の流れをある意味無理に変える事は体の中に膿みを貯め続け、却って社会の発展を妨げる。今後多大な犠牲が出れば同じく多くの涙が流されるだろう。その悲しみの涙に未来を見、そしてその先に新たな繁栄を見る事が正しいと意見されました。
私としてはっきり言えば否定出来ない部分もあるし、歴史は繰り返すと言われればそうなのかもしれません。果たして、皆さんは同じ徹を踏まないよう社会の流れを変える事が明るい未来となるのか、はたまたこの流れは正しいのであって行き着く所まで行った上でその悲しみを乗り越えてこそ明るい未来があるのか、どうお考えでしょうか。

 こんにちは。久しぶりの更新です。今回は私が前々から思っている事を書きます。
 今まさに国会では安保法制が審議されており、侃々諤々の議論と言うよりも野次が飛び交うだけの様な気もするところ、戦争に対する理解が根本的に誤っていると感じます。安保法制イコール戦争するというのは、飛躍し過ぎであり煽るだけでしかありませんが、これを機に戦争しない為にはどうすれば良いのかを考える事は大いに賛同出来ます。ところが、現状を概観すると戦争をするのは法律でもなければ自衛隊でもなく、ましてや兵器は勝手には作動しません。これから判る通り、いつの時代も戦争をするのは人間そのものです。しかし、あたかも人間ではない物が戦争を引き起こす様な論調がありますが、先の大戦を見れば、全ての戦争と言っても過言ではないですが、人間の業の深さなり残酷さが際立っています。大量破壊兵器もそれ自体には何ら意思はなく、使用するか否かは人間に委ねられています。 
 つまり、戦争を再度しないのなら何故戦争は起きるのか、先の大戦の反省に基づくのなら、何故私達は突き進んでしまったのかを深く考える必要があります。先の大戦は教育やマスメディアでもその悲惨さのみがクローズアップされ原因には触れられません。確かに、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下は悲惨であり、筆舌に尽くしがたいものがあったでしょうが、これらは1日で起きた訳ではなく、戦争を押し進めた結果であり、どこかで止められていれば罪の無い市民の犠牲はなかったと考えざるを得ません。
 そうすると、当時の人々は戦争を押し進め、気づいたら最早止められる段階ではなく、反対しようものなら非国民と罵られるという同じ日本人の中で弾圧や迫害があったのです。政治的な要素やそもそも今と同様の民主主義ではなく、情報伝達も発達していなかったという理由もあると思いますが、最大の要因は国民性ではないでしょうか。同質性を意識、無意識に関わらず求めてしまう、俗語で言えば空気を読み過ぎてしまう傾向は強いです。周りに流されてしまい易いとも言えます。災害が起きた時はこれが強みになるのですが、ひとたび戦争が起き、社会の風潮が戦争推進となるとそちらに行ってしまうのです。国民性である以上、是非ではなくバランスを保つ、要するに過度な個人主義は逆に日本人には合わないのですが、社会の風潮に同じく過度に迎合すれば不幸への道を進むだけでしょう。そして、今まさに社会への迎合、多数意見への従順といった風潮が強く感じられます。ある意味異質な何かというのは、目立ち、人目に付く事から、批判の的になりやすく、ネット等の発展も相まって排除の対象となりがちです。私達は個人の尊重を根底に教育され、社会もまたそれに賛同しています。もちろん、私も反対する理由はありませんが、それでもなお排除してしまうは不思議な所です。(個人の尊重を自分だけを大切にする利己的なものと勘違いしている節は多々あるでしょうが、今は深く述べません。)
 この様に、ひとりひとり違う事を頭では分かっているし、反対している訳でもないにも関わらず、いざ異質なものに出会うと排除の傾向が現れるのは、国民性であり非常に危惧されるのです。
 また、日本人は議論するのが非常に苦手です。現代はより多くの人と議論を深められる素晴らしい時代にも関わらず、誹謗中傷するだけに終始し、始末の悪いことに相手の意見を否定し自らの意見の正しさを表明するだけで議論したと勘違いする場合も少なくないのです。加えて、意見は良い意見でないと表明してはいけないと勘違いしている人がこれまた少なくないのです。本来は意見は自分の意見だからこそ発言するものです。

 このように私達の国民性は、災害や良い方向へ社会を進めようという時には真価を発揮しますが、万が一間違った方向へ進む事が社会の多勢を占めるかのような雰囲気になった際にはそのまま突き進み、不幸へと一直線かもしれません。

 しかし、何度も言うように国民性は是非の性質ではなく、正の面も負の面も私達自身が理解し、偏り過ぎずに調整する事が求められます。但し、戦後から70年も経とうとしていますが、自らの考えに基づき深く思慮した上で、自身の立場なりを決める能力はあまり育っていないです。今後の大きな課題でしょう。

 戦争を含め惨禍を惹起するのはいつの世も人でしかありません。どんなに素晴らしい制度や法律があったとしても、作ったのが人である以上覆すのも容易いものです。何故、先の大戦は起き、悲惨な結果となるまで止めることは出来なかったのか、一部の指導者のみが悪いのか、今一度深く考えてみる必要があるでしょう。