こんにちは。久しぶりの更新です。今回は私が前々から思っている事を書きます。
今まさに国会では安保法制が審議されており、侃々諤々の議論と言うよりも野次が飛び交うだけの様な気もするところ、戦争に対する理解が根本的に誤っていると感じます。安保法制イコール戦争するというのは、飛躍し過ぎであり煽るだけでしかありませんが、これを機に戦争しない為にはどうすれば良いのかを考える事は大いに賛同出来ます。ところが、現状を概観すると戦争をするのは法律でもなければ自衛隊でもなく、ましてや兵器は勝手には作動しません。これから判る通り、いつの時代も戦争をするのは人間そのものです。しかし、あたかも人間ではない物が戦争を引き起こす様な論調がありますが、先の大戦を見れば、全ての戦争と言っても過言ではないですが、人間の業の深さなり残酷さが際立っています。大量破壊兵器もそれ自体には何ら意思はなく、使用するか否かは人間に委ねられています。
つまり、戦争を再度しないのなら何故戦争は起きるのか、先の大戦の反省に基づくのなら、何故私達は突き進んでしまったのかを深く考える必要があります。先の大戦は教育やマスメディアでもその悲惨さのみがクローズアップされ原因には触れられません。確かに、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下は悲惨であり、筆舌に尽くしがたいものがあったでしょうが、これらは1日で起きた訳ではなく、戦争を押し進めた結果であり、どこかで止められていれば罪の無い市民の犠牲はなかったと考えざるを得ません。
そうすると、当時の人々は戦争を押し進め、気づいたら最早止められる段階ではなく、反対しようものなら非国民と罵られるという同じ日本人の中で弾圧や迫害があったのです。政治的な要素やそもそも今と同様の民主主義ではなく、情報伝達も発達していなかったという理由もあると思いますが、最大の要因は国民性ではないでしょうか。同質性を意識、無意識に関わらず求めてしまう、俗語で言えば空気を読み過ぎてしまう傾向は強いです。周りに流されてしまい易いとも言えます。災害が起きた時はこれが強みになるのですが、ひとたび戦争が起き、社会の風潮が戦争推進となるとそちらに行ってしまうのです。国民性である以上、是非ではなくバランスを保つ、要するに過度な個人主義は逆に日本人には合わないのですが、社会の風潮に同じく過度に迎合すれば不幸への道を進むだけでしょう。そして、今まさに社会への迎合、多数意見への従順といった風潮が強く感じられます。ある意味異質な何かというのは、目立ち、人目に付く事から、批判の的になりやすく、ネット等の発展も相まって排除の対象となりがちです。私達は個人の尊重を根底に教育され、社会もまたそれに賛同しています。もちろん、私も反対する理由はありませんが、それでもなお排除してしまうは不思議な所です。(個人の尊重を自分だけを大切にする利己的なものと勘違いしている節は多々あるでしょうが、今は深く述べません。)
この様に、ひとりひとり違う事を頭では分かっているし、反対している訳でもないにも関わらず、いざ異質なものに出会うと排除の傾向が現れるのは、国民性であり非常に危惧されるのです。
また、日本人は議論するのが非常に苦手です。現代はより多くの人と議論を深められる素晴らしい時代にも関わらず、誹謗中傷するだけに終始し、始末の悪いことに相手の意見を否定し自らの意見の正しさを表明するだけで議論したと勘違いする場合も少なくないのです。加えて、意見は良い意見でないと表明してはいけないと勘違いしている人がこれまた少なくないのです。本来は意見は自分の意見だからこそ発言するものです。
このように私達の国民性は、災害や良い方向へ社会を進めようという時には真価を発揮しますが、万が一間違った方向へ進む事が社会の多勢を占めるかのような雰囲気になった際にはそのまま突き進み、不幸へと一直線かもしれません。
しかし、何度も言うように国民性は是非の性質ではなく、正の面も負の面も私達自身が理解し、偏り過ぎずに調整する事が求められます。但し、戦後から70年も経とうとしていますが、自らの考えに基づき深く思慮した上で、自身の立場なりを決める能力はあまり育っていないです。今後の大きな課題でしょう。
戦争を含め惨禍を惹起するのはいつの世も人でしかありません。どんなに素晴らしい制度や法律があったとしても、作ったのが人である以上覆すのも容易いものです。何故、先の大戦は起き、悲惨な結果となるまで止めることは出来なかったのか、一部の指導者のみが悪いのか、今一度深く考えてみる必要があるでしょう。