俺はどういう形で用いられていくんかなー、って最近結構考える。
ジョセファット・ガジマみたいに奇跡を行うのには全然憧れない。
ビリー・グラハム親子みたいな圧倒的な知名度と影響力もいらない。
コン・ヒーみたいに教会をぐんぐん引っ張ってくのも違うと思う。
俺って考え方冷めてるんかなー笑
ただ俺が憧れて、こういう形で用いられていきたい!ってモデルは
やっぱりイエス・キリストだけ。
勿論、先に挙げた三人や、奇跡なんかを批難するつもりは一切ない。
イエス・キリストの歩みもまた、奇跡を行い、有名になり、絶えず民衆が後を追うような歩みだったから。
そして何よりも、色んな問題はあろうと、そうしたいいところや問題点全て超越して神の計画があり、最終的には万事が益となるようにされるから。
でも、俺はイエス・キリストの奇跡を行ったことに惹かれるのではない。
イエス・キリストの歩みは、誰よりもへりくだり、従順で、
神を愛し、隣人を愛する。
そんな歩みだった。
そして、愛すること。これが何よりも求められていること。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22:37~40
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。ローマ13:9~10
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。Ⅰコリント13:1~10
愛するにも、まずは神様が一番でないといけない。
神様との関係をしっかりと築き上げることを欠いてしまうと、
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイ7:22~23
こうなってしまう。
俺が奇跡だとかそーゆーのに惹かれない理由がこれ。
別に奇跡自体素晴らしいことだと思うし、全然現代でも起こることだ。
それは一切否定しない。
でもそれらのことばかりに目を注いで、神様自信を愛さなくなること。これが大きな落とし穴となる。
これと似たようなのが繁栄神学だと思う。
神様は私たちのことを愛している。
だから奇跡を行ってくれるし、私たちを繁栄させてくれる。
なんでこれがあかんのかってのもまたシンプルで、
神様が第一にいないから。
そして、「奇跡が起こったり金持ちになるイコール益」だという考えが土台にはある。
確かに私たちが幸せになることは神様は本当に望んでいる。
でも幸せの定義が人間と神様では違う。
「神様が真ん中にいる歩み」こそが一番の幸せなんだと思う。
「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト15:26
有名なこの箇所も、
「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら」
という前提がある。
そしてその前提も「神を愛し、隣人を愛する」ことで完結されるんだと思う。
つまり、もし奇跡を求めるのならまず第一に神様を求める者、愛を行う者となる必要があるし、
パウロみたいに「どんな境遇にあっても満ち足りる(ピリピ4:11)」ようになれればそれこそ奇跡は必要ない。
そして、奇跡がないと神を信じられない信仰は不健全だと断言していい。
愛がなければどんなに素晴らしい奇跡も意味を持たない。
(一応言っておくけど、ここを見てる人はかなりしっかりした信仰の持ち主ばかりだからこんなこと書けるわけ。
神様は人を癒やしたいと思っている。これは絶対。奇跡も否定はしない。
俺は神様を知る「きっかけ」としてなら奇跡は有用なものだと思うし、少々変な言い方やけど「使い方」によるものだと思う。
しっかりとしたクリスチャンしか見てないからここまで書いてる。)
そして、「隣人を愛すること」。
俺にめっちゃ求められてること笑
イエス・キリストの歩みは、別に世界中を渡り歩いたわけではない。
みんなに聞こえるように大々的に説教したこともあまりない。
ただ自分の周りにいる人を愛し、必要に応じて御業を行い、友となった。
これがイエス・キリストの歩みであり、その跡を追いたい、と願う者の倣うべき姿。
それぞれの遣わされている場所で、
親を愛し、兄弟を愛し、教会の人を愛し、地域の人を愛し、どんな人とも友となる。
与えられている関係を本気で大切にし、愛する。
日本のリバイバルのために!
世界のリバイバルのために!
って威勢よく語っていても、家族さえも愛せなかったらそんなこと起こるはずがない。
「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実(ルカ16:10)」なんだから。
結局、リバイバルもそうやって起こるものなんだと思う。
何か特効薬のように大々的に素晴らしい奇跡が起こって、日本人みんなが神様を知って、って
そんなリバイバルはまあ起こらない。起こったとしても、すぐに大半が躓く。
隣人を愛することの延長上にリバイバルがある。
俺はこのことを確信している。
俺はどんな所に、どんな形で遣わされたとしても、
ただただ忠実に神様を愛する者でありたいし、与えれられた関係を心から愛するものでありたい。
その遣わされてく具体的なことはまだ教えられてないけど、
何年たとうと、何十年たとうと、この土台だけはしっかりと持ち続けていたいな、と思う。