神様の求めることってなんだろう。


ずっと心の中をぐるぐる回ってる箇所がある。


「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ書6:6~8


神様と共に歩む、ってどういうことなんだろう。
言葉でみると簡単かもしれない。でも、具体的にどうする?


そして、そのことを含めて、神様が求めていることが四つある。
かたちとして見える捧げ物や儀礼に優って神様が喜ばれること。


一つ目。公義を行う。
二つ目。誠実を愛する。
三つ目。へりくだる。
そして四つ目。神と共に歩む。


個人的に学ばされていることから、この四つのことを考えてみる。



まず、今日は一つ目と二つ目。公義を行い、誠実を愛する。


このことを考えたとき、真っ先にイエス様の歩みが心に浮かんだ。
弱い人の友となり、病人には癒しを、罪人には解放を宣言した姿。
求める者には与え、貧しい人には施し、御国の福音を語り続けた。


このイエス様の歩みに倣う必要がある。


そして、もちろん一般的な法律や規則を守ることも求められるが、それ以上に神様の教えに忠実であり、それを喜ぶこと。
勿論、決して世の中のきまりを軽々しく破っていい訳ではない。イエス様も、人々の躓きとならない為、税金を支払った。


「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。」イザヤ43:1~4


「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」イザヤ61:8


私たちの神は公義と誠実の神であり、私たちに公義と誠実を尽くしている様に、私たちにもそのことを求めている。



次はいつ更新できるかな~。

「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。─主の御告げ─わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤ31:33





どんな戒めや教えも、時が経てば廃れていく。形だけが残る。

これは万国共通の人間の弱さだ。



例えば、学校では授業が始まる時に先生に礼をする。

現代で本当に先生への敬意を表して礼している人はまぁ~いない。

礼の中の「本質」が失われ、休み時間と授業の区切り程度にしか働いていない。



イエス様の時代のパリサイ人や律法学者もそうだった。



律法を形としてしかとらえられなくなり、その「本質」は失われていた。

だからこそイエス様はこの人たちを痛烈に批判した。



対して、イエス様は何と語ったか。



一番大事な戒めは何か、との問いに、



「神を愛し、人を愛する」ことだ、と語った。





「愛する」ということは形の無いものだ。

人それぞれの愛し方があり、愛の感じ方も異なる。



つまり、形にとらわれ、形骸化してしまっていた律法の本質は、

愛と言う形の無い物である、とイエス様は語った。

愛すること。これこそが形骸化しない唯一の戒めだ、と俺は思う。




「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」





私たちは律法を頭で、形で理解してはいけない。



律法の本質を、心を、中心である愛を見続けなければならない。






律法に縛られてはいけない。



「真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:32

律法は縛るためのものではなく、自由を与えるためのものだ。





「こうでなければいけない!」って考えは、御霊が私たちに示す他は、一切必要ない。

すでにそれは二千年前のイエスの十字架によって解決した問題だから。



ある人は自分の弱さを見て嘆く。

でも、それは本当に御霊から来る嘆きなのか?自分の思いではないか?



「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」Ⅱコリント7:10



自分の心を探り知る方によって、本当にその嘆きが御霊からなのかを探ってもらう必要がある。







真にクリスチャンが解放され、自由に歩むために。



律法は私たちの心の中に書き記されていることを覚えよう。



「人はうわべを見るが、主は心を見る。」Ⅰサムエル16:7



私たちは心をもって、心からのものを主にささげ続けよう。

そして、心から、「主よ、愛します!大好きです!!」と叫び続ける者であろう。

形なんてどうだっていい!

自分の愛し方で、自分の方法で、ありのまま神様を心から礼拝しよう!!

お金や時間を管理する者でありたい。


縛られて、支配されて、ってのは嫌だ。


神様のために、今与えられている物をどう活かすか、ってことは人生を通して問われ続けていくことだ。
神様のことを知る、ってどうすればいいんだ?って考えてた。
口では簡単に言えるけどさ。


やっぱり、自分の思いで神様を知る、ってことはよくない。
自分のキャパの中に神様を閉じ込めてしまうことだと思う。
神様はもっと遥かに偉大で、自分の思いなんかじゃあ到底理解できない。


聖霊によらなければ神様を本当の意味で知ることはできない。


「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。 」Ⅰコリント2:6~11


この聖霊の働きは、人間の領域を遥かに超えて働かれる。


「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ローマ1:16
って書いてあるように、聖霊の働きは全ての人に福音を理解させる。
ユダヤ人でも、ギリシヤ人でも、日本人でも、さらに言えば昔の人も、現代の人も、幼い人も、年寄りも、どんな人でも、この聖霊の働きは及ぶ。


憲法や法律、道徳観は時代や置かれている立場で変わる。
昔の憲法をそっくりそのまま現代に当てはめても絶対にうまくいかない。

でも、聖霊によって悟るこの福音はどんな人にも変わらずに救いを得させる。


逆に言うと、聖霊が働かなければ、人は救いを得ることができない。
聖霊によらなければ誰もイエスを主と言うことさえできないから。


神様との交わりの上で、また、神様のことを伝える上で、
もっともっと聖霊を求めていかないといけない。
また、神様のリバイバルのわざが聖霊によって激しく為されていくことを確信している。
圧倒的な聖霊の働きが日本を、世界を変えていく!



「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」イザヤ11:1~9

「まことに、水が海をおおうように、
地は、主の栄光を知ることで満たされる。」ハバクク2:14




もうすぐ受難週ってことで、十字架のはなし。




十字架の死に向かっていくイエス様と他の人々の心情を見ていくと、何度でも新しい感動がある。




律法学者や祭司長たちは、イエス様の人気に嫉妬し、イエス様を殺そうとする。


ユダはイエス様よりもお金を選び、イエス様を売る。


他の弟子たちも、自分たちの命が危なくなると、あれだけ威勢よかったのが嘘のように簡単にイエス様を見捨てる。


群衆たちは、恐らく祭司長たちに逆らうと自分たちの身にも何か起こるだろうと恐れ、祭司長たちの扇動するままにイエスを殺せ、と叫ぶ。


ピラトはイエスを助けようとするが、最終的には自分の保身のためにイエス様を引き渡す。


その真ん中にあるのは、自己中心という人間の本質。




誰もが自己中心に行動していく中で、
ただ一人、イエス様だけが、自分のためじゃなくって他人のために行動する。




裏切るとわかっていた弟子たちの足を洗い、一緒に食事する。


捕らえられる時も抵抗せず、裁判でどんなに嘘の証言をされても口を開かなかった。


ただ、自ら進んで十字架の死に向かうように、
十字架を背負い、十字架に架けられ、


「父よ彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」
って、とりなしをした。


自分を裏切った人、十字架につけて殺そうとした人のために。





俺はイエス様を裏切り、十字架につけた人間だ。
自己中心というどうしようもない罪の中にいる。


全く救いを受ける価値もなく、本当に何もない、地のちりに等しい存在だ。
なのに、すぐに高ぶり、人を裁き、自分を中心に歩んでしまう。


こんなやつを誰が救えるのか。
誰が救おうと思うのか。


なのに、事実、
こうしてただただ憐れみによって救われ、生かされている。
「これは私の愛する子、私の心にかなうもの」って語ってくれる。


この恐ろしいまでの恵みをどんな言葉で表せばいいのか。
何をもって応えればいいのか。
何故救われたのか。


十字架のイエス様を見上げる度、
ただただ「感謝します」って言うことしかできない。




何があろうと、何回失敗して、失望したとしても、
変わらずに輝き続ける十字架を何度でも見上げていたい。
罪の中にあろうと、その先にあるイエス様の愛に何度でも立ち帰っていきたい。


自己中心や人間の罪の本質を一切凌駕して余りある。
これが十字架の救いであり、俺らクリスチャンの永遠の希望だ。

俺はどういう形で用いられていくんかなー、って最近結構考える。



ジョセファット・ガジマみたいに奇跡を行うのには全然憧れない。

ビリー・グラハム親子みたいな圧倒的な知名度と影響力もいらない。

コン・ヒーみたいに教会をぐんぐん引っ張ってくのも違うと思う。



俺って考え方冷めてるんかなー笑



ただ俺が憧れて、こういう形で用いられていきたい!ってモデルは

やっぱりイエス・キリストだけ。



勿論、先に挙げた三人や、奇跡なんかを批難するつもりは一切ない。

イエス・キリストの歩みもまた、奇跡を行い、有名になり、絶えず民衆が後を追うような歩みだったから。

そして何よりも、色んな問題はあろうと、そうしたいいところや問題点全て超越して神の計画があり、最終的には万事が益となるようにされるから。



でも、俺はイエス・キリストの奇跡を行ったことに惹かれるのではない。



イエス・キリストの歩みは、誰よりもへりくだり、従順で、

神を愛し、隣人を愛する。

そんな歩みだった。



そして、愛すること。これが何よりも求められていること。





「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ22:37~40



「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。
愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。ローマ13:9~10



たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。Ⅰコリント13:1~10






愛するにも、まずは神様が一番でないといけない。



神様との関係をしっかりと築き上げることを欠いてしまうと、



その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』マタイ7:22~23



こうなってしまう。



俺が奇跡だとかそーゆーのに惹かれない理由がこれ。



別に奇跡自体素晴らしいことだと思うし、全然現代でも起こることだ。

それは一切否定しない。



でもそれらのことばかりに目を注いで、神様自信を愛さなくなること。これが大きな落とし穴となる。



これと似たようなのが繁栄神学だと思う。



神様は私たちのことを愛している。

だから奇跡を行ってくれるし、私たちを繁栄させてくれる。



なんでこれがあかんのかってのもまたシンプルで、

神様が第一にいないから。

そして、「奇跡が起こったり金持ちになるイコール益」だという考えが土台にはある。



確かに私たちが幸せになることは神様は本当に望んでいる。

でも幸せの定義が人間と神様では違う。

「神様が真ん中にいる歩み」こそが一番の幸せなんだと思う。



「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト15:26



有名なこの箇所も、

「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら」

という前提がある。



そしてその前提も「神を愛し、隣人を愛する」ことで完結されるんだと思う。





つまり、もし奇跡を求めるのならまず第一に神様を求める者、愛を行う者となる必要があるし、

パウロみたいに「どんな境遇にあっても満ち足りる(ピリピ4:11)」ようになれればそれこそ奇跡は必要ない。



そして、奇跡がないと神を信じられない信仰は不健全だと断言していい。

愛がなければどんなに素晴らしい奇跡も意味を持たない。




(一応言っておくけど、ここを見てる人はかなりしっかりした信仰の持ち主ばかりだからこんなこと書けるわけ。

神様は人を癒やしたいと思っている。これは絶対。奇跡も否定はしない。

俺は神様を知る「きっかけ」としてなら奇跡は有用なものだと思うし、少々変な言い方やけど「使い方」によるものだと思う。

しっかりとしたクリスチャンしか見てないからここまで書いてる。)







そして、「隣人を愛すること」。

俺にめっちゃ求められてること笑



イエス・キリストの歩みは、別に世界中を渡り歩いたわけではない。

みんなに聞こえるように大々的に説教したこともあまりない。



ただ自分の周りにいる人を愛し、必要に応じて御業を行い、友となった。



これがイエス・キリストの歩みであり、その跡を追いたい、と願う者の倣うべき姿。



それぞれの遣わされている場所で、

親を愛し、兄弟を愛し、教会の人を愛し、地域の人を愛し、どんな人とも友となる。

与えられている関係を本気で大切にし、愛する。





日本のリバイバルのために!

世界のリバイバルのために!

って威勢よく語っていても、家族さえも愛せなかったらそんなこと起こるはずがない。

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実(ルカ16:10)」なんだから。



結局、リバイバルもそうやって起こるものなんだと思う。



何か特効薬のように大々的に素晴らしい奇跡が起こって、日本人みんなが神様を知って、って

そんなリバイバルはまあ起こらない。起こったとしても、すぐに大半が躓く。





隣人を愛することの延長上にリバイバルがある。

俺はこのことを確信している。







俺はどんな所に、どんな形で遣わされたとしても、

ただただ忠実に神様を愛する者でありたいし、与えれられた関係を心から愛するものでありたい。



その遣わされてく具体的なことはまだ教えられてないけど、

何年たとうと、何十年たとうと、この土台だけはしっかりと持ち続けていたいな、と思う。

「最高の離婚」というタイトルのドラマがある。


離婚に最高も最低もない。
強いて言うならば、「下の下の上」とかそんなレベル。
いや、「下の下の下の上」かな?


でも、日本のマスメディアの性倫理の低さ、性の産業化がもたらす低俗な価値観は「離婚=悪」ということさえも否定してしまう。
それによってもたらされることがどんなに残酷かをわかっていない。
ただ男女の片方または両方が傷付いて終わりなんじゃなくて、子供の成長にも悪影響を及ぼすことが明らかになっている。


それなのに、日本人、いや、日本のマスメディアはできちゃった婚が大好きで。
できちゃった婚をした夫婦の約半数が五年以内に離婚している、という恐ろしいデータまで出てしまっている。
「離婚=悪」という方程式の崩落もこの惨状を後押ししているだろうが、何よりもできちゃった婚を抜きにすると、この国の出生率がとんでもないことになってしまう。一言で言えば、「酷い」。


何故出生率が低いのか。
何故子供を産まないのか聞かれると、金銭的の余裕が無い、と答える夫婦が多いそうで。
でも、お金が無いから子供を産まないと言うのはこれまたおかしな話で。
事実、日本でも戦後のみんなお金がない時代にベビーブームが起こっている。
日本はその時代と比べて遥かに豊かになった。
豊かになったから逆にその豊かさに依存し、結果的に出生率の低下を招いている、と捉えた方が正しいんじゃないかな、と思ってしまう。
本当はお金がないから子供が産まれないんじゃなくて、お金があるから産まれない、ってこと。




こうやって色々繋げて考えてくと、
どんなにこの国が酷い倫理・価値観に支配され、それらが連鎖してがんじがらめになっている様な状態なのか、ってことを思わされる。
真理からずっとかけ離れた価値観が「当たり前」になってしまっている。




クリスチャンとして。
この価値観から解放され、真理に歩むことのできる者として。


絶対にこの世の価値観に縛られて歩んではいけない。


誰になんと言われようと、真理を、神様の望まれることを貫き通す者でありたい。


神様が計画された、本来の、素晴らしい祝福である性、結婚、家庭のかたち。
お金や物ではなくて神様に依存し、神様を愛すること。


ずっと追い求めていたい。
委ねるってどういうこと?


シンプルに見えて、実は複雑かと思いきや、シンプルなもの。笑


少し間違えると、それは委ねてるんじゃなくて、拘りになる。
拘ると言うことは、字の通り自分で握ってる、縛ってるってこと。


つまり、手放す、イコール委ねてるつもりが、実は「そのことに拘ってる」ことになってしまうことがよくある。
このことはほんまに気をつけないといけないこと。


でも、委ねてるつもりで拘ってる時って、
自分じゃ絶対わからない笑


現に俺も、牧師や教会の人と進路について話し合ってる時にそのことを指摘されたんやけど、
言われた時はほんまに腑に落ちなかった笑
「え、委ねてるつもりなんですけど…」って。




委ねるためには何が必要か。


まずは神様のことを知ること。
神様がどんな方で、どんなに素晴らしいことをして下さるかを知ること。
ただ頭で理解するだけじゃあ絶対に次のステップには行けない。
聖霊による上からの知恵と悟りによって、理解する。
誰も聖霊によらなければ、イエスは主だと告白することはできない、って御言葉にある。
そんな初歩の初歩さえも聖霊無しではできないのなら、尚更、もっと深いレベルで神様を知るには聖霊の力が絶対に必要不可欠。




神様のことを知ると、神様を信頼することができる。


誰も、通りすがりのおっさんがいきなり「ちょっとついてきてや」って言ってきても行かないのと一緒で、
神様との交わり、神様がどんな方かを知ることによって始めて信頼が生まれる。


先に何があるかわからなかったり、
不安なことがたくさんある時、
神様が共にいてくださるから大丈夫なんだ、って信頼できないといつまでも何も進まない。




次に、自分の弱さを知ること。


自分は何もできないんだ、ってことがわからないと、自分の力で進もうとする。


神様は、何か地位や名声があるから俺を召したのか?
何か能力や知恵があるから召したのか?
何かを持っているから召したのか?


絶対違う。


俺には何もない。何もできない。弱い。
でも、神様が一方的に、命を捨ててまで愛して下さり、一方的な恵みにより、こんな弱いものを選んだ。
敢えて神様は小さいものを選んだ。


それは、その人の力によってではなく、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって」神様の栄光が現されるため。
その人が能力に頼って神様の栄光を現そうとしないため。
また、その人を見た人々が、その人ではなく、その人に働かれる神様の御業を知るため。


自分には何かできる!って思いが少しでもあるならば、それは砕かれなければならない。
それが少しでもあると、完全に神様に委ねることができなくなる。


ただ、
こんな何もない自分に、神様の恵みと憐れみによって、必要な賜物が与えられている。
問題はそれを自分の力だと思い違いをし、結果的に神様に委ねきることができなくなること。


極論を言えば、
自分の思いが1パーセントであるならば、99パーセントが神様の思いでもそれは100パーセント自分の思いなんだ、って思う。
これは俺の経験上の話やけど。


誤解しないで欲しいのは、
神様は必要に応じてそれぞれに思いを与えるってこと。
ただ、それが神様からの思いなのか、自分から出た思いなのかを判断することはかなり難しい。
常に神様の御心を慕い求める信仰の姿勢が求められてるんだと思う。




神様のことを深く知ることによって生まれる信頼と、
自分の弱さを知ること、
その上で注がれている神様の一方的な恵みに目を留めること。


ここでやっと初めて、神様に委ねるということに進める。


聖書には、ダビデは神様の御心と完全に一致していた、って書いてある。
ベストはそうなること。神様の思いが自分の思いになること。
かんなり難しいけどね笑




自分を取り巻く環境、世の中のこと、色んな不安を神様の前に置き、神様に信頼し、
自分の思い、できること、弱さ、そういったものを全て神様に明け渡す。


これができて始めて、本当の意味で神様に信頼することができるんだと思う。
聖書読んでて、


あ、今まで考えてたことは違ったんだ。


ってなること、結構あるよねー。




神様の召しについてずっと考えてきた。


色んな考えがいったりきたりして、
一日毎に思いが変わったりして、
何が正しいのがわからなくなって、


もし、神様の召しを知らなかったら。
ノンクリスチャンだったら。
どんなに決めるのが楽だろう、ってなってた笑




神様の召しがある前提で、
その召しに向かって何を選び取っていくのか。


これが俺の最大の課題だった。


でも、それは違うんやと思う。


俺がわかったのは、



そんな偉そうなこと言える立場じゃない!
ってこと。笑




俺はどうしようもない人間だ。
あまりにも小さいし、弱いし、何もできないし、口だけだし、
すぐ高ぶるし、愛せないし、赦せないし…


そんな人間を、
わざわざ神様が選んで、召して下さったんだ。


そのことを深く考えてみたとき、


俺、何様やねん!って思った。




ただただシンプルに、
そんなありえないような神様の召しに


「主よ、従います。」


この一言で十分なんじゃないかな、って思った。




俺が牧師として召されたのは、


自分の行いによるのでもなく、
能力によるのでもなく、
考えによるのでもなく、
一方的な神様からの計り知れない恵みによるんだ。


だとしたら、その歩みもまた、
神様からの一方的な導きによるもののはず。


だから、俺はただ、それを喜んで受け入れていけばいいんだ。


その神様の導きのままに、
俺に任された働きを全うする。


そんな人生を歩めたらいいなぁー。
結構誤解を招くタイトルですが笑


もちろん、
投げやりになって、どうでもいいと言ってる訳ではありません( ̄▽ ̄)




なーんか。
進路のこと。
将来のこと。


どうでもよくなった。笑


ただただ、神様を慕い求め、
神様が導く道を喜んで歩んで行きたい。




前まではさ。


どれも魅力的に見えなかった。進路のこと。


でも、色々、神様との交わりのうちで変えられていって


どれも魅力的に見えるようになってしまった!笑


恐ろしい変化だよね。




ただ、心にあるのは、
進学するしないとか、どうこうとか全部ひっくるめて、


神様が共にいて下さるなら、それでいい、ってこと。


神様さえ共にいるならば、
どうでもいい、ってこと。




わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。

「あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
ヨシュア1:9




ほんっまに、
はたからみれば、ヤバすぎる俺の進路。笑


でも、全然俺は不安がない。笑


神様が俺の人生を握ってくれてる。
神様が導いて下さる。
共にいて下さる。


はっきりわかるから。




うん。なんとかなる。




計らずしも、今日からアドベントに入った。
共におられる主、インマヌエルの主が、
この地に来てくださった。


おっそろしい。笑


もっともっと、このとんでもない愛を
深く深く体験していくアドベントにしたいな。