国展とは? | <国画会 太田穣>N40度 feel so good

<国画会 太田穣>N40度 feel so good

真山神社でパワーストーンを施し絵画を制作
国画会 太田穣のブログ

僕の所属する国画会の紹介をします。毎年、国画会では国内最大規模の公募展「国展」を六本木の国立新美術館で開催しています。僕の個展情報は国画会ホームページからもご覧になれます。


<国画会 太田穣>N40度 feel so good  国立新美術館(ウィキペディアより引用)


国画会主催の国展について

◆成りたち
 1918年(大正7年)文展から自由な制作と発表の場を求めて、京都の青年日本画家・小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰、入江波光らは在野としての「国画創作協会」をおこし、その通称を「国展」とした。
 創立宣言・・・「各自ハ各自ノ自由ノ創造ヲ生命トス」
 (要旨)   「芸術ノ創作ハ極メテ自由ナラザル可カラズ」
        「本会ハ創作ノ自由ヲ尊重スルヲ以テ第一義トナス」
同協会は1925年(大正14年)土田麦僊と交流のあった梅原龍三郎を招き、さらに川島理一郎を加え第1部を日本画部とし、第2部として洋画部(現絵画部)を設置した(翌1926年が第1回国展に相当)。そして1928年(昭和3年)国画創作協会の解散に伴い、第2部は名称を「国画会」として独立し、通称の「国展」もそのまま継承した。
 草創期の国画会の果たした在野団体としての役割は、福島繁太郎の影響もあり、毎年のように諸外国の優れた作家たち(マチス、ボナール、ロダン、ブールデル、バーナード・リーチ、ルオー、モネ、ルノワール、シャガール、ピカソ、セザンヌ等々)を特別陳列して世に広く紹介したことが特筆される。この事は内部的に研鑽の資となったのは勿論、対外的にも海外作品に触れることの少なかった当時の美術界には非常に有益な企画でもあった。
 以後、絵画部に版画部・彫刻部・工芸部・写真部を加え、5部による美術団体として、戦争激化のためやむなく中止した1945年(昭和20年)を除き、毎年春期に都美術館にて「美術の春・国展」を開催し、2005年(平成17年)には79回展に至る。
 現在、国画会は創立精神である「創作の自由」をモットーに、個性を重視し多様化する表現様式と新しい世代にも呼応する総合美術団体として、広くファンの支持を得ている。なお、会の運営はすべて合議制である。

◆最近の企画から
  1996年 70回記念シンポジウム「地球の未来と芸術・21世紀に向けて」
       および「自然保護のためのチャリティー展」
  1997年~2002年 各部会員によるリレー講演「三人三様私の世界」
  1997年~2005年 国展会場にて「自然保護・社会福祉のためのチャリティー」
  2001年 75回記念選抜作家による「私の世界」 パネル展示「国画会75年の歩み」
  2001年 21世紀を担うさっかたち「国画会75周年記念新人選抜展」
  2003年 パネルディスカッション「可能性-21世紀の公募展」
  2004年 パネルディスカッション「自然と人間-スローにアート」
  2005年 パネルディスカッション「スローにアート||-表現と領域」

◆近代日本美術の先達
 下記に掲げる作家は近代日本美術の先駆者として活躍した先達であるが、国画会においても大いに活躍し、
 またその後内外に多大な影響を及ぼしたことでも知られている。

《絵画部》 梅原龍三郎、川島理一郎、山脇信徳、大橋孝吉、椿貞雄、河野通勢、高村光太郎、難波田
      龍起,
宮坂勝、高幡達四郎、宮田重雄、柏木俊一、久保守、武者小路実篤、増田義信、

      山口薫、青山義雄、庫田テツ、杉本健吉、土田文雄、香月泰男、山崎隆夫、国松登、

      林重雄、伊東廉、宇治山哲平、曽宮一念、川口軌外、原精一、須田剋太、井上三綱、

      松田正平、里見勝蔵、小泉清、張替正次、彼末宏 小牧源太郎、藤田吉香
《版画部》 平塚運一、恩地孝四郎、川西英、川上澄生、棟方志功、畔地梅太郎、関野準一郎、山口源
       笹島喜平、斉藤清

以下略

更新 2005年 9月 25日 (金) 3:19:13 PM
(国画会ホームページより引用)


絵画部には梅原龍三郎をはじめ、高村光太郎や武者小路実篤が会員として在籍、また、版画部には棟方志功が会員として在籍してしていました。国画会には日本の美術の発展の礎に貢献された方々が在籍していましたが、今なお日本の美術界の発展に努め、そして世界に向けて飛躍しております。