今日は、仕事に行く電車でマルクス、帰りの電車でエンゲルスの本を読んでいました。 帰りの電車は席が空いてなかったので立ったまま電車の壁に本をおしつけ赤や青や黄色のペンをかばんのなかからとりだしては、いそいそとものを書き込みながらエンゲルスの本を熟読していました。近くにやはり片手でなにかの本を開いてもう一方の手で吊り革を持って立っていた男性が変なひとを見るような顔でぼくをみているのにふと気づきました。 最寄り駅の近くのラーメン屋でエンゲルスの続きを読んでいました。マルクスもエンゲルスも、哲学や、経済学、革命論といった多岐にわたる分野で活躍した歴史的なひと。 かれらが残した文献は、ぼくにどういう世界観を持てばいいか、自分の目の前に次から次へとあらわれる物事や問題にどういう姿勢で向き合えばいいかを教えてくれます。ものすごく難しく書いてあるからなかなか理解までいきつけないときもたくさんあるけど、すんなり腑に落ちるときもあります。 ラーメン屋でセルフサービスの水をコップにつぎながら「マルクスやエンゲルスのように物事を正確につかもうとする姿勢を常に持っていなくてはいけないんだ」と熱く考えていたら、コップから水が溢れてしまいました。正確に物事をつかみたいと考えていたからこそ、自分の手にもったコップに正確に水をつげなかったことがおかしくてクスクス笑ってしまいました
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某新聞の記事を読んだ。小学校6年生の女の子が自殺。少女が描き残したまんがには「友達っていいな」っていう言葉があったそうだ。すごく胸が痛くなった。ある朝、毎日使う駅のホームで突然、見慣れているはずのひとごみが自分の独感をふと際立たせることがある。部屋の電気を消して眠りにつこうとするとき、自分の持つ人間関係をひもとき虚しさを覚える夜もある。そんな時は、いままでたくさんのひとに囲まれて生きてきたわりに、心から理解しあえたり、小さなことでも笑えあえたり、なぐさめあえたり、励ましあえたり、風邪をひいたときに心配しあえたり、ときに指摘しあえたり議論しあえたり、自分がいつも自然な気持ちでいることができたり、ぼくと一緒にいることで自分らしく自然体でいられるっていうひとがいなかったりすることに気づかされる。淋しさや侘しさを感じる夜はさっさと眠ってしまってやりきれない気持ちから逃げたいと思うけど、猛烈な胸の苦しさがなかなかそれを許してくれない。孤独感というのはどうにかなってしまうんじゃないかというほど人をくるしめる。まだあどけなくて無邪気なはずの小さなこどもが自ら命を絶つことを想像すると胸が掻きむしられる思いがする。ひとりぼっちの辛さを知っているおとなはたくさんいるし、おとなのなかにさえそれを苦に過ちを犯すひとがたくさんいる。まだ肉体的にも精神的にも成熟していない少女がその苦しみをたったひとりで背負うことは言い表せないくらい堪え難いことだったろう。そのうえ少女が理不尽ないじめなどで、なんの根拠もないのに周囲から攻められ否定されつづけたのだとしたら不憫すぎる。もしかしたら、心のなかで「助けて」と神様に必死に祈っていたかもしれない。心のなかで必死に声を張って叫んでいたかもしれない。まだ幼いちいさな少女は必死に必死に苦しみに耐えていたのだとおもう。でも少女は助からなかった。神様は少女を闇からひきあげることはしなかった。彼女が神様に希望を託したかどうか事実はわからないが、「友達っていいな」っていう切実な気持ちをまんがに託したのだろう。唯一その少女を救えることができた存在があったとしたら、それは人間の温かい気持ちや温もりのある言葉だったと思う。しかし現実にはこの少女の事件に限らず、たくさんのこどもが自ら自分の人生を終わらせてしまったり心ないおとな達に殺されてしまうまで、誰も彼らが泣いていることに気づいてすらあげることができない場合が多々ある。ほんとうに悲惨で痛ましい。悲劇だ。それでも、まだぼくは人間は現実にたいして無力ではないと信じたい。
左の肩に拳大の入れ墨があります。17才の誕生日の数日前に、彫り師に頼んで彫ってもらいました。当時、ぼくの周りの人間関係は塗装屋や鳶のひとたちが多くて入れ墨なんて珍しくなかったのです。鳶関係のほとんどのひとが背中や胸、腕といったところに、勇ましい絵柄を彫っていました。そんな環境にいて「かっこいいなぁ」なんてばかな憧れをもち、若気のいたりに任せぼくも左肩にひとつ彫りました。しかし、今ではこれが自分の体の致命的なコンプレックスになっています。泊まりがけの企画があるときは、恥ずかしくて行けません。実際、いまの職場に入り、何度か学習会やスポーツの企画などで泊まりがけの企画が何度かあったのですが一度も行っていません。行けないのです。入れ墨を消せる消しゴムがほしいなぁ炅