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1945年5月14日


この日はイスラエルが建国された日。

毎年5月14日になると至る所に国旗が掲げられ祝賀ムードに包まれます。



一方、そこから検問所を越えて入るパレスチナ自治区は、まるで喪に服しているかのような正反対の様相を呈しています。皮肉にも翌日の15日は、『ナクバ(悲劇的厄災)』と呼ばれるパレスチナ人の苦難が始まった日に当たるためです。


イスラエル建国から60年以上たった現代でもその苦難を終わらせる和平の道筋はいまだ見えていません。


~ 国旗の重み 『生命のパスポート』より ~



終わりのない悲劇…

そのなかで一番しわ寄せを受けるのは、幼い命です。


パレスチナでは、イスラエルによる経済封鎖や分離壁、入植地の拡大、検問・道路封鎖、外出禁止令などで経済活動や、日々の移動でさえも制約されています。

実に人口の66%が一日2ドル以下の生活を余儀なくされています。


人々は日常的に様々な困難を強いられ、その影響は身籠った母親にも及びます。

多くの女性が医療施設に通えなかったり、出産の兆候や異常を早期発見できず、検問所の長い列で出産

する女性もいるといいます。

パレスチナには、保健庁のほか、国連パレスチナ難民救済事業機関、NGO、民間が運営する医療施設がありましたが母子保健サービスが標準化されておらず、産前産後や乳幼児の検診の記録方法も統一されていないため母子が継続したサービスを受けにくい状況でした。


ご存じのとおりパレスチナ問題は根が深く、これまでの各国の努力も実を結びませんでした。

現実問題、早急な解決は望めません…


それでも…目の前で失われていく幼い命を救いたい…

日本の国際協力機構スタッフはそこに力を入れることにしました。



この課題に取り組み、母子の健康改善を図る手段として注目されたのが『母子手帳』です。


母子手帳は日本で独自に発達し戦後から今日に至るまで、母子保健水準の向上に貢献しました。

その経験は、国際協力を通して、インドネシアをはじめ各地で採用され始めています。



2005年8月

『母子保健に焦点を当てたリプロダクティブヘルス向上プロジェクト』がスタート。


日本の国際協力機構はパレスチナ保健庁や国連児童基金とともに作業委員会を設置しパレスチナ版母子手帳の作成に乗り出しました。日本人専門家の指導のもと、日本やインドネシアでの経験を参考に、パレスチナ保健庁の職員が主体となって初のアラビア語母子手帳草稿を作成。


日本で母子手帳の作成・運用に関する研修を受けて、草稿を改善しました。日本で研修を受けたバーセム・アッリマーウィ ラマラ県保健局長はこう言います。

「正直、日本に行くまで自信が持てなかった。日本の経験を見聞きして、私たちも、手帳を活用することで、患者の情報を医療機関の間で共有し、共通の保健システムを構築できると確信した。また、日本人は伝統と地域社会を重んじ、互いを尊重する。勤勉で明確な目標を持ち、達成するための計画を立て、素晴らしい国をつくってきた。そんな日本での研修はより説得力があった」



しかし、ここで新しいシステムの導入という、ただでさえ困難を伴う試みに、試練が待ち受けていました…


2006年1月に行われたパレスチナ立法評議会選挙で、イスラエルとの共存を認めないイスラム原理主義ハマスが勝利したことに対し、欧米諸国はパレスチナへの援助を凍結しました。イスラエルも代行徴収税の送金を止めます。それらは自治政府の財政をかつて無いほど困窮させ、ついにハマス政権は公務員に給与を支払えない状態に陥りました。


せっかく動き出したプロジェクトも頓挫してしまうかと思われました。しかし…


プロジェクトに携わる保健庁の職員らは、無給にもかかわらず毎日出勤し、活動の前進に尽力しました。

ジェリコ県保健局のカマール・ジャーベル局長はこう強調しました。

「私たちにとって、わが民族のために、個々の利益を犠牲にして奉仕するのは当然の責務である。それは、苦難に耐えて生きてきた私たちの歴史、文化なのだ」


そうした声に多くのパレスチナ人が同調しました。

検問所や突然の道路封鎖…もはや困難に耐え忍ぶことが日常ともいえる中で、苦しみを跳ね返す力を身につけてきた彼らにはプロジェクトが直面する難題も切り抜けられないはずがなかったのです。




2006年7月

医療従事者や母親の意見を参考に作成した試作版がジェリコ県とラマラ県のパイロット地区の母子保健センターで配布され始めました。試作版の改定を重ねるとともに、パレスチナ全域の医療従事者への研修や、住民への啓発活動が始まりました。


そして、2008年1月

ついに全国普及版の手帳12万冊が刷り上りました。その数字は、年間出生数をカバーしていました。

印刷費も日本がUNICEFを通じて支援しました。


この日から妊産婦は手帳を携帯することで、移動制限のために同じ診療所に通えない場合でも、自治政府公立センター・国連関連施設・NGO施設・民間診療所など、あらゆる医療機関で、連携の取れた適切な診断、治療を受けることが可能になったのです。


これはまさにパレスチナの歴史的瞬間であり、数々の試練を共に乗り越えてきたパレスチナと日本のプロジェクト関係者にとって、その努力が報われた瞬間でした。


チーフアドバイザーの萩原さんは日本の人々に向けてこう語りました。

「パレスチナ人は、政府が不安定な状態でも、支援を続ける日本に信頼感と感謝の気持ちを持ってくれています。日本が戦後の復興の中で、母子保健を改善させてきた経験に、パレスチナの人々が共感し、地域の発展に役立ててくれることは、日本にも元気と誇りをくれるでしょう。パレスチナは日本から遠く、危険なイメージがあるかもしれませんが、日本だからできる、中東和平への貢献があるのです。」




ラマラのベトゥニア母子保健センターに、生後1週間の男の子を抱いてパレスタイン・キランさんがやって来ました。

「ラジオで手帳のことを知りました。産後のケアや子供の発育に大切だって聞いて、欲しくて来ました。」と目を輝かせて言いました。


まだまだ問題は山積みで彼女たちの不安が一掃されたわけではありません。しかし、母子手帳を受け取りに来る母親たちの表情は皆、生き生きと輝いていました。自治政府が子供を産む環境の改善に動き出したこと。そして、それを信頼できる国、日本が全力でバックアップしていること。そのことが彼女たちに希望を与えたのです。分離壁によって自由な往来が阻まれているパレスチナでは、母子の生死を分けるような緊急時にこの母子手帳が文字通り重要な命綱となっています。



パレスチナの人々は、この手帳をいつしかこう呼ぶようになりました。


『生命のパスポート』


イスラエルとの和平の行方は混迷し、長い占領下の抑圧的な生活の中で将来への展望を見出せない人々に、「生命のパスポート」と呼ばれるこの母子手帳が、一筋の明るい光を照らしている。