私が小学生の頃です。

あすぺるがー風な人、
略して「A風な人」である父親が
狭い我が家のダイニングに置かれた
ひとつの椅子を指さしながら

「ここには何も
置かないことにしたから」

と自慢げに家族に説明しました。

つまりは、
お前たちもここには何も置くな
ということなのでしょう。

この言い方もA風な人の特徴です。
話の中に相手の存在がないのです。

だから、相手にお願いしたり
協力を求める言い方にならずに
命令口調になります。

でも、
露骨な命令だと自分の立場が
悪くなることは学習したようで、
よくヘンな言い方になります。

なのでその命令を
命令でないように紛らわそうと
必死なのがいつも伺えます。



当時の我が家は
父親が自分の縄張りでも
示すかの如くに
父親の物がいたるところに
置かれていました。

父親が
「置くな」と示したその場所は
今までは父親の物である
古い新聞紙が山のように
積まれていたところです。

この新聞紙に私が勝手に触ると
説教一時間コースだったので
私は関係しないように
生活していました。
(なぜか姉や弟が勝手に触ったときは
説教がありませんでした。)

その古い新聞紙が片付けられていて
人が座れるようになっています。

その「片付けたこと」を
自分の手柄として家族に示して
優越感を搾取しようと
しているようです。

実際に片付けたのは母親ですが
指示を出したのが自分だから
自分の手柄だと父親は信じていました。

父親の話を聞きながら、
父親が古い新聞紙を処分して
きれいになったことは
今までも関係なかったので、
「なんだ、これからも
自分には関係ないってことじゃないか」
とほっとしました。


ある日、
その椅子の上に新聞紙が
置いてありました。

見つけたときに
「まさか私のせいにはしないだろう」
と思っていたのですが、
そのまさかの事態になりました。

椅子の上の新聞紙を見つけた父親は
「誰だ!ここに置いたのは!」と
また優越感の搾取ができると思って
騒ぎ出しました。

母親は「私は知りません」、
姉も弟も「自分は知りません」と
父親が確認すると、
なぜか私が置いたことにされます。

「なんで置いたんだ!
ここには置くなって言ったでしょう!?」

絶対的な優位を感じているのか
たっぷりと優越感を搾取しようと
私に迫ってきます。

「僕は知らないよ」と答えても
父親は譲りません。

「おかあさんもみんなも
自分は知らないって言ったんだ。
お前しかいないでしょうが!?」
と激怒し続けます。

小学生の身で
大人の怒りをぶつけられると
なかなかつらいです。

そのつらさに
「はい、ごめんなさい」と
つい言って終わらせたくなって
しまいます。

でも、
本当に私は置いていないので
「僕が置いたんじゃないよ」と
言い続けました。

さすがにこれには
母親が横から
「おとうさん、この子は
置いてないっていってますよ。
今朝は置いてありましたか?」
などと言って父親をなだめます。

父親はなぜか
家庭内の都合の悪いことの責任は
すべて私にあると信じます。

母親がさすがにまずいと思ったのか
「おかあさんがおとうさんと
ちょっと話してみるから
あなたは2階に行っていなさい」
といってとりあえず救われます。

震える思いで
2階でしばらく待っていると
下から呼ばれたので
行ってみました。

するとなぜか父親は笑顔です。

母親と確認する中で
どうやらその新聞紙は
父親自身が置いたものと
わかったようです。

母親が間に立って
「これおとうさんが置いたって
わかりましたよ」と言います。

続いて父親が
「これ、おとうさんが置いたんだった。
そういうときは、自分は置いていないって
ちゃんといわなくちゃダメだよ。」
と言ってきました。

え?
言いましたよ、さっき、目の前で。
なんだその言葉は??

さらに父親はこう言ってきました。

「おとうさんは
いろいろやることがあるから
ちょっと忘れちゃったんだよ。
だから次からは
ちゃんと言ってくれないと困るよ。」

え?
なんで私だけが悪いことになってるの?

父親は
自分が悪いことにはできない、と
固く信じていますが、
自分が悪いことにしないためには
悪いことをした人が必要なので、
それに適任なのが私、というわけです。

母親も父親に見捨てられないためにも
父親の味方の立場で居続けるため
私が悪いことになっている状況は
常に見過ごされます。

父親は
この「自分は悪くない」を
確認するやりとりで
優越感をたっぷり搾取できると
満足げな顔をすると、
背中を向けて
自分の用に向かっていきました。

私は泣き寝入りです。

A風な人は
世界には自分しかいないので、
「自分さえ善ければ満足」なのです。

これは、
「自分さえ善ければ
他者はどうなっても構わない」
よりも悪い状況と
見ることができます。

なぜなら、
改善の余地がないからです。

「他者がどうなっても構わない」
と思う人は、
世界に自分以外に人がいる人ですから、
訓練次第で他者に関心を持つことが
できるようになります。

しかし、
A風な人は
世界には自分しかいないので
”他者に関心を持つ”ということが
理解できないのです。

やりとりで
自分が悪くない、
すなわち、
自分は善人であることを
確認さえできれば
何も問題がないことになるのです。

相手が泣いてたり
悲しんでいたりしても。


その後はその椅子に
何か置いてあると
また私の責任にされるので、
誰が置いたかどうかはわからなくても
とにかく置いてあれば
私がどけていました。

たまに父親は
何も置いていない椅子を示しながら
「ここには何も
置いちゃいけないんだよね?」と
私に訊いてきます。

私はその通りなので
「うん」というほかありません。

その質問自体が
「うん」と言わせる行為、
すなわち相手を支配する行為なので、
予定通りに「うん」と答えると
父親は支配できたと感じて
優越感を搾取できますから、
父親はさぞ楽しかったでしょう。


その後半年くらい経ってから
どんどん新聞紙がその椅子に
置かれるようになりました。

それを見て
私はいつも恐怖を感じてました。

また話の通じないこの人に
いつ自分が悪者扱いされるのか、と
常に緊張していました。

恐怖をかかえながら
いつまでもこの状況はつらいので
勇気を使って父親に確認してみました。

「この椅子には何も
置かないんじゃなかったの?」

すると父親は
「ここしか置く場所ないから」
とよくわからない返事をくれました。

母親が翻訳して
「他の椅子の下とかに置いていたけど
もう置く場所がなくなったから
そこしかないんだって。」と
伝えてくれました。

は?
あんなに私にひどい扱いしておいて
自分は家族の許可もなく
勝手に置いていいの?

さすがA風な人です。
他者のことは
本当にどうでもよいのです。

くやしくて
泣けてきます。

でも見捨てられないためには
父親に敵対できないと
小学生の私は信じていたので
何もできませんでした。

でもできる範囲の抵抗を
してみました。

「おとうさんがここには
何も置かないことにしたって
言ったんだよ?」

「そんなこと言ってないよ。
おとうさんは置かない方が
いいねって言っただけだよ。」

父親の要請で
私はこの椅子には
何も置かないようにしていたけど、
それは無視されています。

しかも、過去の約束も
勝手に都合よく書き換えられてます。

当時はA風な人であると
わからなかったので、
これにひどく傷つきました。

A風な人にとっては
自分が自由にふるまう、
すなわち、自分の好都合100%で
何でもできる状況は
とてものびのび安心安全で
快適な状況です。

それが家族以外であったら
とっとと離れていくので
家族以外にすることは
ありません。

家族、
とくに私を相手になら
何をやっても離れていかないので
やりたい放題です。

もし家族に悪く言われたら
「見捨てるぞ」をチラつかせれば
自分の言いなりにできると
思っているので、
もう無敵状態です。

だから、
自分から頼んでおいて
それを自分が忘れても
自分に悪くないことを
確認できるやりとりさえできれば
何も問題にならないのです。

母親も父親に
今回の椅子とは別の場所を
「ここはいつもきれいにしておいて」
と頼まれて、
見捨てられたくないので
一生懸命にきれいにしていました。

しばらく経ってから父親は
一生懸命に掃除する母親を見て
「そんなところを
一生懸命掃除なんてしなくても
いいでしょう?」と
母親に言いました。

母親は驚いて
「あなたがここを
きれいにしておいてって
言ったんじゃないですか」と
返します。

「そうだっけ?
そんなこと言ったっけ?」
とまるで憶えていない様子。

そして、
「そこはもういいから、
はやくごはんにしてよ」と
父親に言われた母親は、
精神的なダメージを受けながらも
「じゃあ、ここはきれいに
しておかなくてもいいんですね?」
と確認を試みます。

すると父親は
「もういいって言ってるじゃないか!」
と怒り出す。

怒ると母親が言いなりになると
信じているから。

その通りに母親は
そこの掃除をやめて
食事の支度へと向かいます。

こんなことが
よくありました。





お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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