『お笑いをやってるのとこういう番組やるのと気分的に差がないんですよ、同じ興味があることをやっているだけで』


タモリのお言葉である。


この文脈からみると、そのタモリのやっている番組は、純粋な「お笑い」ではなさそうだ。


どんな番組か探りを入れれば、「興味があること」と言っているので、たぶん「趣味的」なものを主な構成としている「ブラタモリ」か「タモリ倶楽部」であろう。


そしてこの文章のカタさ度合いを考えると、「ブラタモリ」ではなかろうかと推察できる。


しかしタモリは、「お笑い」も「趣味的」番組も差はないと言っている。


ならタモリは、「お笑い」を「趣味的」な範疇に入れているのか。


ただ、こういう言致を残すということ自体、「お笑い」と「趣味」にはなにかの差がありそうである。


言葉で言っている以上、意識の中になにかの差を認めていると思われるのである。それでいて、「“気分的”な差はない」のであるのだから、完全に「笑い」と「趣味」一致を見せないのではないだろうか。


そう、“気分”では同じだが、全くの一致ではない…。


さて、かつて「抱かれたくない男」NO.1を幾つも戴冠していたタモリだ。

そのタモリが今では人格者になっている。


「タモリ倶楽部」で、下ネタをドカンドカン炸裂させていたタモリは、昔女性陣から嫌がられる変態的人間に見られていた。

タモリは今でも「タモリ倶楽部」で下ネタを披露しているが、以前ほどの切れ味はないように見える。


もうそこに“人格者タモリ”が横たわっているからだろうか。


その変態的だったタモリが、人格者になり変わる道筋にこの「お笑い」と「趣味」が関係しているように私には思える。

特に「ブラタモリ」で披露する「趣味」の程度が、あまりに含蓄があり高邁でしかもコアな「趣味」であったから、視聴者はタモリを人格者というパッケージに包むようになったと私には思われる。


そして、年配になっていくタモリは、「趣味」の方に「笑い」を向かわせた。

そう、タモリは「笑い」と「趣味」を自分なりに近付けたのではなかろうか。

もっと言えば、元々近かったものがもっと近くなり自然になった。

そして番組もその方に進んでいった。

そう言っても過言ではなさそうだ。


タモさん。タモさんは、「ブラタモリ」ではどれだけ自分の足で歩いているのですか。



『いまだに何かを分かったわけでもなく、ただ迷いつつ手探りでやり続けております』


タモリの本心かどうかは分からないが、タモリの押し隠していた謙虚さが明るみに出た言葉である。


ただ、タモリが「ただ迷いつつ手探りでやり続けて“おります”」とは全くらしくない。

明らかに猫を被っている。


この猫被りで笑いを取ろうとは、新免宮本武蔵が「小次郎敗れたり!」と木の櫂で脳天をかち割った巌流佐々木小次郎が如く、「タモリ敗れたり!」とタモリの腹黒さもかち割られるのは時間の問題である。


そう、それほどタモリらしい笑いであるのにも関わらず、タモリらしくないのだ。


ああ、自分でも言っていることが分からなくなってきた。


ただ、ここに言っているような“謙虚さ”や“誠実さ”はあまりにもタモリらしくない。


タモリは裏で手ぐすね引いて、客引きの客を騙したり、ポン引きに指図するようでなくてはならない。


いやそれも少し違う、それもタモリらしくない。


タモリを思うとき、その含蓄と学歴がスッと浮かび上がるが、しかし本物のタモリはそうではない。


あるとき、タレントの千秋がヘッドフォンをしてなにも聞こえなくなっていることをいいことに、「コイツ口が臭いんですよ」とさんざん悪口を叩いていたことがある。


これがタモリなのだ。


タモリの見た目とか印象とか、そんな安易なことではない。


タモリ初号機の“名古屋いじり”、“ニューミュージックいじり”が本物のタモリの真骨頂なのだ。

私はそう思っている。


タモリは屁が臭いことでも有名だが、それをあまり表沙汰にはしない。


ああ、いかにも腹黒いではないか。


あとタモリは、すきっ歯でカツラ疑惑があって…。


そうタモリは、それにも言及しない。

やっぱ腹黒い。


タモさん。タモさんは、三遊亭円楽とどっちがより腹黒いのですか。

 

  

  

  

 

『年取って最近は飲めなくなったね。12時間も飲むと辛いね。当たり前だけど』


タモさん飲み過ぎ!!


12時間。

半日である。

どう考えても、アーネスト・ホーストのハイキックを受けたがっているような危険な言葉だ。

そしてタモリは「当たり前だけど」と断っている。


当たり前である。


12時間はチョット酷い。


ただ、こう言うのもなんだが、私は酒が飲めない。いや、飲まないと言った方が正しい。

飲んだあと、肌荒れに見舞われ、身体がだるくなる。だから、酒には全くと言っていいほど詳しくない。


しかし、タモリは飲む。


一世一代の大仕事と言ったように飲む。


もうオレなんか、どうなってもいいじゃないかと言うほど、12時間ぶっ続けで飲む。


それでも「年取って飲めなくなった」と言っているように、若い頃はもっと飲めただろうことが、行間に滲み出ている。


「酒は飲んでも飲まれるな」


昔からある「標語」だが、最近テレビニュースを観ていると、飲んだあとで酒に飲まれているというように、人間自体が別人格になって、暴力沙汰や迷惑行為で逮捕されている人が増えている。


しかも年齢が若い。

私は門外漢だが、そういう人は、まだ酒のたしなみが分かっていないのじゃないかと思ってしまう。


私も同僚と飲みに行くこともあるが(私はソフトドリンク一辺倒)、同僚はたしなみを心得ているのか、絡み酒になったことは1度もない。


酒の魔力。


「為せば成る為さねば成らぬ何事も…」と言ったのは上杉鷹山。

この、何事もできないことはないと言う気持ちで酒に飲まれないよう、自らを律しなければなるまい。

この世の中ルールがある以上、人間としての抑制が大事なのは当然のことなのだから。


ああ、タモリ、タモリ。


時を戻そう。


タモリは、酒に飲まれることはないのだろうか。


いつかなにかで、タモリが酒に酔って服を脱ぎ出したと書いてあるのを目にしたことがあったと思うが、もうそれは酔っ払って飲まれているんじゃないだろうか。

タモリ自身、自宅ではほとんど全裸で生活しているようなので、常時酔っ払っているのかもしれない。

まあ、そんなことはないだろうが…。


しかし12時間以上飲んでいて、礼節を守り、一糸乱れなくなるのは少し信じがたい。であるなら、ベロベロのヘロヘロで前後不覚、トイレで爆睡のようになっているのではないか。


タモリも吉幾三の「酒よ」のように乱れることもあるのだろうと思うが、推測の域は出ない。


タモさん。タモさんは鶴瓶のようには乱れないのですか。それとも酒豪なのですか。


 

  

  

  

 

 『このコーナーひとりでしゃべってると、なんか全部日本中オレのものにしたって感じ』


このタモリの名言(名言か?)は、一体なんの番組で発せられたのだろう。


たぶん「笑っていいとも!」のコーナーでの発言だったと思うのが妥当であろう。


いやータモさん、ホントに全部日本中オレのものにしちゃってください。

そこは、我々タモさんファンとしては、粛々と従っていきますよ。

アンチタモリファンは、粛々と反旗を翻すと思いますけど…。


しかし、タモリのこの気持ちは、ある程度理解できる気がする。


特に学生時代。


なんかオレ(ワタシ)ってスゴいんじゃないと、なにひとつ根拠も実績もないのに思ってしまう時、時期がある人にはあると思う。


もう、その世界は、かぐや姫の「神田川」である。


あれが学生時代というより、同棲時代だったとしても、青春は青春である。

その若い時期の恋人の言葉を通して、“若かったあの頃なにも怖くなかった”と言わしめた「南こうせつ」。

彼も、タモリの気持ちに近付いたというより、それに似た感情を持ったと言ってもいいのではないだろうか。


そのように、“怖いもの”がなくなると“全部日本中オレのもの”っていう気分になると思われる。

それが、ひとつのコーナーを“怖いものなし”にしゃべくっていると、そのハイテンションが青春時代の春の謳歌を思わせるはずだ。


私なんか、この名言(名言か?)の意味合いが分かると言った手前、後戻りできそうもなく思うが、そんな青春時代でも、正直なんかイヤだなァコイツとか、ココらへんコワイなァと思ったことはある(そりゃそうだ)。


しかし、そんな小さなイヤだなァやコワイを凌駕して、なんかオレスゴいじゃんが、タモリの言う“日本中オレのもの”にまで発展するのは、青春のバカな頭では理解でき存在するのだ。


そう、オレはバカだった。


なんとも、青っ洟を垂らした大バカだった。


タモさん。タモさんもバカなのですか。


  

  

 

 

『やっぱり近道はないよ。真ん中の王道が近道なんだよ』


このタモリの言葉を聞くと、私は真っ先に藤井聡太の名前が頭に浮かぶ。地元ということもあるだろう。


「サタデーステーション」でよく出演する、藤井聡太君の師匠である杉本昌隆氏。


この師匠が「藤井君は登山に例えるなら、近道というよりも、頂上まで一直線で登るけもの道を開拓して登っている」と言っていたが、そのけもの道も、あと10年後位には、王道と呼ばれるようになるのではないだろうか。タモリの言う通りになるかもしれない。


しかし、ホントに最近の将棋ならずとも、様々な競技や生活面での技術革新には、目を瞠るものがある。


ぶっちゃけ公衆電話みたいに固定位置ではなく、歩きながらも携帯できる外での電話なんて、バカだった俺の幼稚園時代には、夢のまた夢。思ってはいけないものであった。ご禁制である。


というよりも、「スマホ」。


あんなもの、道中に片手で映像や音楽、情報収集や発信ができるなんてものは、昔ではもう、もっての他である。死罪である。


そのような技術革新は、王道か近道か(なんに対してかは知らないが)と問われればよく分からないが、もしかしたら退化への第一歩と言えるのかもしれない。


そう、そして私が学生の頃、マラソン大会というものがあった。


冬のクソ寒い時期なので、鳥肌が立ってしょうがなかった。

そのマラソン道中、近道はないかと思ったり、自転車でも落っこちてはいないかと卑怯くさいことも考えた。


全く、機動戦士ガンダムのカイ・シデンである。

あの、「軟弱者!」とセイラさんに頬をしばかれたカイ・シデンである。

「親父にも打たれたことないのに」はアムロ・レイである。


しかし、そのカイ・シデンこと私も“ア・バオア・クー”に挑むように臆病ながらも粛々とルールに従ってマラソン大会をした。そして、まあまあ早かった。


カイ・シデンは、続編で見事に行方不明になってしまったが、藤井聡太君は近道を王道として行方不明にならず、けもの道を突っ切って突き抜けてほしい。

そのうち、その将棋が王道になるにしても「藤井方式」と名前が付けばよい。


タモさん。タモさんの坂道学に、けもの道は加えられますか。


 

  

  

  

『カメラは別に関係ないんだよ。俺たちがやっていることを、勝手に映しているだけなんだから』


タモリの自身の芸に対する、自負心とも取れる言葉である。


ただ、この言葉を発した時期は定かではない。なので時系列ではなく、その度ごとに当てはめていく。


タモリの初期の芸である“携帯模写”や“4ヶ国語マージャン”。

このタモリの初期の芸をタモリ自身は、明確でなく、なんとはなしの売れる期待感は少しあったと思う。


しかしこれらの芸は、密室芸と言われ(言葉じたいそこまでピンとこない)、タモリに対しあまりメジャーにならず、ファンは付いたが、飽くまでコアなファンであった。


それでもタモリは言う。


「カメラは俺たちの芸を勝手に映しているだけ」


そう、この言葉の奥に、タモリは自らの芸に対する自信のようなもの、そこまで売れてない時点でも、「おい、カメラ、ただ俺を映しておけ」と、ナルシストっぽい、淡くとも心底に漲った、自らの芸に対する信頼のようなものが確かにあったのだと思う。


これは先見性のあるスタッフ、関係者たちも、タモリはなんかすごいよなと感じていたのだと思う。


周囲の信頼が強くなると、その反動から当然訪れる、微塵の危惧が生まれるに於いて、タモリ自身も微塵ではあるが敏感にその危惧に取り込まれ、自分は売れないのじゃないかと思っていたことがあったかもしれない。


それでもタモリは、危うい綱渡りのように思える芸能界に対して、テレビ界なにするものぞとの、意固地とも思える期待と自信を、自らを戒めるように持っていたんだと思う。

だからこそのタモリは、そのひとつのタモリというネームヴァリューを後々に確立していったのだろう。


そのタモリの分岐点は「笑っていいとも!」だろう。「オールナイトニッポン」でも「空とぶモンティ・パイソン」でもなく「笑っていいとも!」だ。


まあ、分岐点で言えば、山下洋輔や赤塚不二夫との出会いも、大きすぎるほど大きいが。


再度言うが、タモリに「ただ映せばいい」言わしめるにたらしめたきっかけは、「笑っていいとも!」の大成功にあると私は思っている。


タモさん。タモさんは、自分のテレビ映りは気になりますか。



『大切なこと、それは引きずらないことだ。乾杯すれば、それで仲良し。やったことはすぐ忘れる。それが大事。人間なんてそんなもんだよ』


タモリにしては(タモリだからか)、かなり楽観的な言葉である。


いや、楽観的というか、こころに留め置いた方がいいよと、ささやかれているような格言めいた言葉だ。


「嫌なことは引きずらず、乾杯して丸くおさめる」


いやいや、そう簡単には行きませんぜと、ついツッコミを入れたくなる。


そして、「やったことはすぐ忘れる。それが大事」


もう健忘症にでもなれ、いや、その気概ですぐ忘れろ、なんて言われているようで少し引く。


「それが大事」


“大事マンブラザーズバンド”かよと、説教臭い言葉に思えてさらに引いてしまう。


ああ、“大事マンブラザーズバンド”


先達、NHKの「日本人のおなまえ」という番組で“大事マンブラザーズバンド”の作詞作曲歌担当“立川俊之”が彼の楽曲「それが大事」の歌詞のことでテレビに出てたなと思う。

その番組を観ながら「それが大事」を歌った人って“KAN”じゃなかったっけと、“KAN”が歌うのを思い浮かべたが、画面を観ると、見知らぬ派手なおっさんが出てきたので“KAN”もイメージチェンジしたのか、いや、ただうらぶれただけなのかと勘繰ったが、名前に“立川俊之”と出てきたので、誰それとこんぐらがってしまった。


だいたい、今の人で「それが大事」も“立川俊之”も分からないだろうから、NHKの視聴者の高齢化が顕著なのが、それでバレてしまうだろう。


まあ、それやこれやで“KAN“と”立川俊之”の違いを調べたら、“KAN”は「愛は勝つ」という楽曲で、全然違うことが分かった。というより思い出した。


「やまだかつてないテレビ」だったと思うが、“KAN”がそんな番組で「愛は勝つ」を歌っていたなァと今さら思い出して、そうだったなァと感慨にふけった。


そう「人間なんてそんなもんだよ」


そんなタモリの、今回の名言の最後の言葉が、“あいだみつを”の言葉みたいだなァと、気持ちが揺れた。


タモさん。タモさんのその言葉の一撃が、中年に差し掛かりそうなオレの土手っ腹に、風穴を空けるような気がして淋しさがつのります。



『一見どうでもいい話題をじっくり掘り下げていくと、やっぱりどうでもいいんだよね』


そう、どうでもいいものはどうでもいい。ならぬものはならぬ。


タモリは結局、どうでもいいものはどうでもいいんだよねと念押ししている。


ここに、一般的などうでもいいものを挙げてみよう。


・前澤友作の宇宙旅行

・前澤友作の新しい彼女

・前澤友作のあのインチキ中国人みたいなヒゲ

・爆問太田のピップ


この世の中には、どうでもいいことに溢れている。

そこをタモリは、掘り下げていってもやっぱりどうでもいいじゃんと、うなだれながら笑っている。


例えば、前澤友作が顔を整形したと言っても、男の私にはどうでもいい。


そこを掘り下げて、二重まぶたにしたとか、鼻を高くしたとか、まつエクでまつ毛を長くしたとか、シークレットブーツをシークレットサービスに知られたとか(それは違うか)、そのように前澤友作の顔面整形を掘り下げていっても、全くどうでもいい。


結局、今時点、その相貌の行き着く先は「インチキ中国人」にとどまってしまう。


金をばらまく前澤友作。

しかし、彼の金は、私の手元にまで辿ってくることはまずないだろう。

だから、私としてはどうでもいい。


そう、ここで気付くことは、どうでもいいは、私的などうでもいいと、一般的などうでもいいに分かれているということだ。

しかし、この2点のどちらかを掘り下げようと、詰まるところ、双方ともどうでもいいのだ。


ただ、なかには、どうでもいいようでどうでもよくないものが確かにある。

山田孝之のあのヒゲだ。

あのヒゲにだけは、座布団1枚とついつい言ってしまう。

それなら前澤友作のヒゲはどうか。

あのヒゲにだけは、座布団全部取っちゃえとついつい言ってしまう。


タモさん。タモさんは、前澤友作の座布団を何枚取りますか。



『一見どうでもいい話題をじっくり掘り下げていくと、やっぱりどうでもいいんだよね』


そう、どうでもいいものはどうでもいい。ならぬものはならぬ。


タモリは結局、どうでもいいものはどうでもいいんだよねと念押ししている。


どうでもいいものを挙げてみたいと思う。


・小島よしおの筋肉

・髭男爵のひぐちカッター

・ふかわりょうの高学歴

・NHKの気象予報士、斉田季実治のメガネ

・ダンディー坂野のダンディー具合

・ヒロシの首の角度

・スギちゃんのコーラ


こう見ると、どうでもいいものには列挙にいとまがない。

ここで列挙したものは、人によってはどうでもいいものとは思われないものもあるだろう。

しかし、私のツボにはまりそうではまらない、私的などうでもいいものだ。

あと、前澤友作のお金のばらまきも、私の手元に届く可能性があまりに低すぎるので、どうでもいい。

さらに、老年の女優に時々見られる、顔面整形。あれはどうでもいいのもあるけど、相貌が変化しすぎてしまっていて、見るに耐えない。


まあ、これ以外でも、人によってのどうでもいいは沢山あるだろう。


そして、このどうでもいいものをいくら掘り下げていっても「なんと、そんなに深い真実があったのか」とはならないのが99%だと思う。


ひぐちカッターなんか、どう使えばいいか分からないし、街中で使ったら、頭がいってるねェと思われるのが関の山だ。


そう、タモリの言う通り、掘り下げようがない。いや、そんなことをしたら時間の無駄だと言うことだろう。

そもそも、掘り下げられないんじゃないかとも思ってしまう。


また、どうでもいいものは、私的なものと一般的なものに分かれると思われる。

繰り返すが、上記の列挙は私的なものだ。


ただ、なかにはどうでもよさそうでどうでもよくないものがある。

山田孝之のあのヒゲ。あのヒゲだけは座布団1枚と言ってしまう。


タモさん。タモさんはどうでもいいものに、山田孝之のヒゲは入りますか。



『サラダの70%は空気だよ。空気を食っているようなものだよ』 


タモリ独特の語り口でのサラダ論である。


たしかに、サラダは食前に出てくることが多く、腹にもそう溜まらない。

サラダを主食として取り扱うこともないし、サラダを目的として出掛けることも、人によるだろうがそう多くはないだろう。


ただ、フレンチ、イタリアンや中華とかでのサラダの扱いはどうなっているのだろう。


中華なぞにはサラダの概念は薄いように思われるが、フレンチ、イタリアンとなると、サラダは副菜としての添え物程度ではないだろうか。


なにより、私はあまり高級店やフレンチ等のシャレたお店に詳しくないので(私の貧しい食生活が明らかになってしまうが)、いかんとも申し難い。


ただ、一般的な焼き肉とかではレタスを巻くとか、牛丼屋、カレー屋でもサラダは安価で、食前の腹を起床させる役割をしている。そう、全くの前菜である。


ここで、タモリの言う「サラダは70%空気説」が、活気を帯びてくる。


サラダは、目的である食事の飽くまで前菜である以上、それを主張しすぎてはダメだし、味もこってりとした重いものではダメだ。飽くまで、腹の目覚まし時計であり、脇役であるのだ。


そのようにして腹に入っているものがサラダなのだとしたら、その30%しかお腹は膨れていないと言われると、いくら沢山食していたとしても、妙に現実味が感じられる。なんせ、お腹が全然膨れていない。


となると、タモリの言う、軽食よりも軽い、空気のように軽いようなものがサラダになるのだろう。


ここにタモリの「サラダは70%空気説」に納得できるようになる。


主賓である食べ物ではない、そういう腹応えのある食べ物ではなく、飽くまでその前に食する、口をすすぐ空気のようなもの、食べ過ぎても肥満体にはならないもの、それがサラダなのだ。これで、納得感はいや増すのではなかろうか。


しかし、私はサラダの起源や、食し方のルールなんぞは全く分からない。世界全体でも、国によってどう対処が分かれるかも知らない。

ただ、日本ではタモリの言う「70%空気説」に当てはまると思い、私は同意したのだ。


我々はサラダでいう、なにサラダに当たるのだろうか。


タモさん。タモさんはサラダになにを掛けますか。