「母の怪我、私の後悔 そして、これから」

 

 

「ゆりゆりちゃん お母さんがね階段から落下してね

出血が酷いけんが、国立病院に搬送するけん」

母の携帯電話からの着信。昼前の一本の電話から始まった。

電話の向こうは、私の同級生。

母は月に一度のかかりつけの整形外科の病院へと通っていた。

そこの病院では、偶然にも私の同級生が看護師として働いてた。

私は仕事をやめ、急いで搬送先の病院へと車を走らせる。

出血が酷い?何故階段から落ちるの?

階段なんて使うはずがないのに。

何があったの?大丈夫なの?

どうして?

なんで私は母の病院に付き添わなかったのだろう・・・・。

色々な思いが頭の中を駆け巡る。

そして、何故病院に付き添わなかったのかという思いが、

私の中に、

この先ずっと、

この後悔が胸にこびりつく事になる。

搬送先の病院へと着いたがCT・MR・色々な検査があり

どんな状態なのかも分からない。

やっと症状の説明を受けたのが夕方。

頸椎損傷。顔面強打。首の腫れもあるので呼吸にも影響が出るかもしれない。

先生に色々な説明をして頂いたが、

頭に入ってきたのは

右手がかないにくく、自力歩行は難しいかもしれない・・・。

処置が終わり少しだけ母に会う事が出来た。

首を固定する器具、打撲の痣、口の中も切っていて

なかなか喋るのも辛そうだ。

「ごめんね」と母からのひと言。

管につながれている母。

痛々しい母の姿。

昨日は娘と実家へ行き一緒にチョコレートケーキを

「美味しいね」と食べていた笑顔の母が、

ストレッチャーの上では全然違う姿になっている。

でも・・・

命があること それは少しだけほっとした。

今後の事、入院の説明を受けて病院を出た時は夜空に星が出ていた。

熊本城もライトアップされいる。

ふう~とため息とともに涙が出た。

母は、網膜色素変性症を患っている。

それに加え22年前、私の娘が生まれた日に交通事故にあい、

大腿骨骨折などの怪我を負ったが

リハビリをして、つえは使うが自力歩行していた。

普段は家事もこなしていた。

連絡をくれた同級生の看護師も母の最近の見え方について

気にしていてくれた。私も日々、気にはしていたが、別々に暮らしている事もあり

母からはどう見えているかは、あまり話したがらないのでちゃんと聞いてなかった。

母には嫌な質問だったかもしれないが、ちゃんと聞いていれば、

通院にも行ける時には付き添っていたが、毎回毎回付き添っていれば、と。

やっぱりその後悔が私の胸を張り裂く。

救命病棟から一般病棟へ移り、コロナ渦の中、面会もほぼ出来なかった。

それからリハビリ専門の病院への転院。

現在、病院の方々のサポートを受けて少しだが自力歩行も出来た。

でも、顔面強打の影響か視力は光を感じる程度に落ちてしまっている。

頸椎損傷の影響で手指の痺れは取れないようだ。

介護認定4を受けた母は退院後、年老いた父しか居ない自宅での生活は難しそうだ。

退院が迫る中、

障害者生活支援員の方が居る視覚障がいの人が過ごしやすい特別養護老人ホームの

入所申込を済ませた。しかし、満床ですぐには入所出来る訳でも無く、

どうすれば良いのか分からない。

ホームへの入所希望もこの決断が母にとって、自宅に帰れないという現実を奪ってしまっている様で

私の心の中の、グレーな気持ちがざわざわとする。

この申込みをして良かったのか。

私や妹が頑張れば自宅での生活が出来るのでは無いか。

いや、どう考えても難しい、無限ループの中をぐるぐると走っているようだ。

こうなるならば・・・・・と

通院へと毎回付き添わなかった私の後悔はいつも襲ってくる。

でも、時間は過ぎていく 確実に。カチコチと秒針は進んで行く。

今日も母は病院で歩行を頑張って、

自分でご飯を食べて歯を磨いてと日常生活を取り戻せる様にと

リハビリを頑張っている。

ほんの少しづつだけど、自力で出来る事が増える様に頑張っている。

私の渦巻く後悔を消すことは、多分一生出来ないだろう。

私は、その後悔と隣り合わせで過ごす。

そして、母を見守る。

そして 母がこれから生きていく上で

穏やかで楽しみを持てる様な生活が出来る事を、

切に願う。

 

 

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母が怪我をして、1年4カ月が過ぎました。

今は、希望していた特別養護老人ホームへ入所する事が出来、

そこで母は暮らしています。

ほぼ視力を失い、右手がなかなかかなわない母にとって

サポートしてくださる職員の方々には

本当に感謝です。

コロナ渦の中、

やっと面会が15分だけど出来るようになり、

暑かった夏の入所以来、母と会えるのは本当にうれしかったです。

とっても楽しみにしていた年末年始の外泊、

家族水入らずで実家で過ごす予定でしたが、

またコロナウイルスが猛威をふるい

急遽キャンセルになり・・・・。

電話口での母の声が何よりも寂しそうで

あたしも辛かったです。

 

現在は外出することも出来るようになり、

父を連れて食事をする時間がもてるようになりました。

母がお箸を使って、お椀を持てて食事がしている姿を見て

本当に本当に感動しました。

 

今の母の願いは、父と新婚旅行で行った宮崎に

旅行に行くことだそうです。

宮崎への旅は、少し難しいかもしれないけど

母の誕生日でもある七夕あたりに

家族で旅行が出来ればいいなと。

 

七夕さま 願いを叶えてくださいね。

 

 

 

 

 

「あたし就職は東京にするけん」と話す娘。

「あ~やっぱり」と答える私。

四年前、上の娘が就職を機に上京する時と

同じやりとりをした。

上の娘が居なくなって、ぽっかりした心に

下の娘と過ごす日々は

私の安らぎでもあった。

でも、それももう20日もすれば旅立ってしまう・・・・・。

 

先日、国家試験が終わった。

娘は作業療法士の試験を受けた。

その職業を目指したのは理由がある。

下の娘が生まれた日、私の母は横断歩道を渡る時に車と接触し

大腿骨骨折などの怪我に見舞われた。

その後、辛いリハビリを頑張って杖を使うが歩ける様になった。

娘の成長とともに、母とよく街ブラやカラオケに2人で

行く様になった。上通りから下通りを歩いたりして

「そがん、ばあちゃんを連れまわして」と言う私に

「リハビリだよね ばあちゃん」と答えてた娘。

大学進学時は、「ばあちゃんの様に事故や病気になった人が

日常生活に戻れる様にサポート出来る仕事に就きたい」と。

その夢が現実になる時が来ようとしている。

 

「ママがいい~ママがいい~」と保育園に預ける時に泣きじゃくってた娘。

他の人が「おいで」と抱っこしても、すぐ泣いて、

なかなか人見知りが酷かった娘。

それが、今では人見知りを克服して、他の人に手を差し伸べる職業に

就こうとしている。このコロナ渦の中、本当により一層大変だろう。

 

娘は自分の力でやってみたいと、上京する事を決めた。

私は不安だし淋しいし、でも応援する事を決めた。

 

娘の背中に生えた羽が大きく羽ばたき、たまには休める止まり木になれる

場所を、ここ熊本で守りたいと思う。

image

 

この3月に下の娘っこも、

とうとう・・・・・・・・・・・・

 

 

 

お江戸に就職で旅立って行きましたえーんえーんえーん

その気持ちを残したいな~と新聞に投稿。

ちょうど大学の卒業式の日に掲載されて

めっちゃ記念になりました飛び出すハート

 

あれから三ヶ月

早いもんですね~~~。

娘っ子が居なくなった家はこうも静かだったんだな~と

しみじみと思ってます。

ゴリラ旦那との2人の生活は、会話もないしね(笑)

 

今はLINEでの文字だけのやりとり。たまにビデオ通話して

顔を見ることが出来て、元気で仕事もして

自分のペースで生活している様で

ほっと安心。

頼もしいじゃん

と、思うけどやっぱざびじいよ~~~えーん

と言うのが本音魂が抜ける

次はいつ会えるか分からなんけど、

その日まではお互い元気でボチボチ

歩いて行こうスター歩く

 

これからはあたし自身を見つめる道を

歩いて行こうかねチュー口笛

と、思う矢先に母の怪我に父の病気が発覚。

なかなか神様は試練を与えるもんだ

ふとん1ふとん2ふとん3