『コンビニ人間』
コンビニ人間を読んだ。
時折、もやもやと掠める感情を代弁してもらっているようで、味方を見つけたような、
少し安堵する気持ちになった。
この本の主人公は、自分という確固たるものが一切なく、周りの人たちの集積により自分を作り出している。
人は、自分への自信、自我という部分が少なからず存在し、その部分は短期的には変わることはあまりなく、
それ以外の部分が他の人と、集団と共有されたりうつりあったりするものだと、私は考える。
この前者が著しく欠損した主人公。そして、前者の部分で満ちてるいる羽島。
この対比が痛快であった。
私は個人的に、自分への自信、自我というものを絶対視している人間を嫌悪している。
自信がある人間は自我についてよく考える必要がない。というより、よく考えているのならば、自信をもてるはずがない。
たとえば、羽鳥が本当に縄文時代からの人類史を学び、そして自分を省みることができたのなら、社会を嫌悪するのは変わらないかもしれないが、少なくとも自分を守ろうとする、正当化しようとすることはできないはずだ。
無思考の人間が、あたかもそれが正解かのように、テンプレの人生を自信をもってすごす。
このことに絶対の嫌悪と嫉妬の感情を抱く。
更にこの本の清々しい所は、社会によるテンプレな人生に対する異常なプレッシャーと押し付けがましさを、はっきりと露わにしてくれているところだ。
ムラ社会の例えをする羽鳥は支離滅裂のようで、かなり核心をついているように聞こえた。
この本を通して思ったことは、たとえ普通な人生と他人に思われるとしても、心の中までは普通に、無思考な人間に絶対になりたくないということだ。