賞罰は子供の自立を妨げる
子供を叱ってはならない。なぜなら叱ることは互いの尊敬を毀損する行為であるから。
怒りや叱責は未熟で暴力的なコミュニケーション手段である。
叱責を含む暴力は暴力的行為への恐怖とは別に「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働きます。
褒めることは共同体の中に競争原理を生み、子供たちに他者は敵であるというライフスタイルを植え付けることになる。
叱ること褒めることすなわち賞罰は子供の自立を妨げる。自分の支配下に置こうとしていて大人は子供の自立を恐れている。
そこには尊敬が存在しない。
何より危険なのは何かが善で何かが悪であると中途半端な正義を掲げることです。
正義に酔いしれた人は自分以外の価値観を認めることができない。
教育の入り口は尊敬
教育の入り口は尊敬。
あなたが子供たちに対して尊敬の念を持つこと。
尊敬とはありのままにその人を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。
子供たちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。いつでも援助する用意があることを伝え、近すぎない距離で見守るのです。
教育の目標は自立であり、あなたのままでいいのだ、価値があるのだと尊敬を通じて伝えることで子供はくじかれた勇気を取り戻し、自立の階段を登り始めます。
自立とは自己中心性からの脱却
なぜ教育の目標は自立なのか。
自立とは自己中心性からの脱却だからです。
成長するにつれ、いつまでも世界の中心に君臨することはできない。世界と和解し自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。
甘やかされた子ども時代のライフスタイルから脱却しなければならないのです。
反抗する子供は感情をコントロールできないのではありません。むしろ十分すぎるほど感情をコントロールした結果それらの行動をとっている。そこまでしなければ親の愛と注目を得られない、ひいては自分の命が危うくなると直感して。
自立とは経済上の問題でも、就労上の問題点でもありません。人生への態度、ライフスタイルの問題です。
この先あなたも誰かを愛する決心が固まる時が来るでしょう。それは子ども時代のライフスタイルとの決別を果たし、真の自立を果たすときです。我々は他者を愛することによって、ようやく大人になるのですから。
愛は自立です
運命の人など存在しません。
目の前に愛すべき他者がいるのに、あれこれ理由を並べて「この人ではない」と退け、「もっと理想的な、もっと完璧な、もっと運命的な相手がいるはずだ」と目を伏せる。
それが出会いがないと嘆く人の正体だと考えてください。
今はまだ幸せが訪れていないが、運命の人に出会いさえすれば、すべてがうまくいくはずだと、可能性の中に生きているのです。
誰かを愛するということはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり決断であり約束である。よっていかなる相手との愛もありえます。
あなたは「幸せになりたい」ではなく、もっと安直な「楽になりたい」だったのではありませんか?
楽をしたい、楽になりたいで生きている人はつかの間の快楽を得ることはあっても、本当の幸せをつかむことはできません。
愛とは信念(勇気)の行為であり、わずかな信念(勇気)しか持ってない人はわずかにしか愛することができない。
相手が自分のことをどう思っているかなど関係なしにただ愛する。課題を分離し、ただ自分から先に愛すること。
われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。
他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。
そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。