断捨離に励む父の「いるか、いらないか」に答えるには、心理的圧力がかかる。
実家の押入れの中から出てきた昭和のものたちのほとんどに、「いらない」と判断を下すのは本意ではない。
当時は必要なものであったし、令和まで大事にとってあった(忘れられていた)ものだし、父が働いて購入したものたちである。いくら、父本人が断捨離をしているのであっても、全てを「いらない、使えない」と否定することはできない。
なので、3~4個に1個くらいの割合で、「それはいるよ」と言っている
昭和の必需品、茶びつが出てきた。しかも二つ。
懐かしい・・こういうアイテムがあったことを忘れていたが、たしかに使っていた。
一つはいただき物で箱に入っていた未使用である。当時は何かのお返しとかで送り合っていたのだろう。
懐かしさのあまり「これはもらって帰ろうかな」というと、父は喜んだ。「そうか、じゃあ二つ持っていけ」という。それは無理そこそこ大きいではないか。しかも丸である。やんわり理由を述べて一つだけを自分の車に運んだ。
土鍋が三つの日もあった。どれも未使用品である。
そもそも土鍋は一家庭一つでいい。百歩譲っても家族用と個人用か。でも、ここにあるのは、2~3人用が三つである。カントリーの家(私の住まい)にも、使っているものがあるのだ。
しかし、昭和の土鍋は蓋の装飾がいろいろある。父は「いいものだからカントリーの家に持っていけ」と大変押してくる。私はその熱心なトークに負け、今では売っていないような緑の蓋の土鍋をもらうことにした。すると「こっちはホーローだぞ」と得意気に別の鍋もすすめる。商売が上手である。緑だけにした。
そしてお正月に飾る小さな干支の置物も、「そろそろいいぞ」と言う。そろそろとは、じきにお正月が来るという意味のようだが、確か来年は兎である。牛や羊の置物を飾るのは何年先なのだろうか。おそらく父は縁起物を捨てられないのである(私も捨てられない)
そして今日、実家で見つけた。
あの日の会話のまま、昭和の土鍋に牛が乗っていた。父にして捨てられず。
やはり断捨離は容易ではない。
カントリーの公園