カンボジア活動記 vol.1が消えた
更新動作中に原稿ごと飛んだガーン
vol.1は後ほど更新するとして先にこちらをUPします得意げ

前回キリングフィールドの記事で登場したトゥールスレンについて

photo:01



トゥールスレンは1979年に発見された
高校の校舎を政治犯専用の収容所に改修した施設(名称はなくS-21というコードで呼ばれていたが現在は土地の名前であるトゥールスレンと呼ばれている)

施設はフェンスと棘のついた電気の流れるワイヤーで囲まれていた
一度入ったらでるこができないとささやかれていた

photo:02



施設内は校舎ごとにABCD棟に分かれている


A棟は6x4mに仕切られ、窓は拷問の際の悲鳴が漏れないようにされた
ポルポト政権の反抗分子リーダーとされた人々が収監され、彼等はベッド、ブランケット、クッション、マットを与えられた
鉄の入れ物(多分弾薬入れ、またはプラスチックの水入れ)は排泄物用に支給された

この棟では1979年1月7日に、14体の遺体がUFNSK(United of front for the national salvation of Kampuchea)によって発見された
それらは身元が判別できない姿だった
現在はA棟の前に埋没され白い墓が並んでいる
14体中1体は女性のものであり、彼女は最後の犠牲者とされている

室内には発見当時の写真が貼られている
顔がグチャグチャで判別がつかない
ベットや手錠、排泄物用の入れ物
部屋によってはブランケットの一部(?)はそのままで
足元にまだ血痕の残った部屋もある


A棟の前に木でできた大きな鉄棒のようなものがある
高校だった頃は生徒の運動器具として使われた
収容所と化した後それは拷問器具へ姿を変えた

囚人は両手を後ろ手に縛られ逆さに吊るされる
気を失うと拷問を再開するため水瓶の中に突っ込まれ、意識が戻るとまた拷問される事を繰り返す


BCD棟はそれぞれ異なったつくりで
一階はブリキ、レンガ、木でできた独房に分かれていて、二階は多くの囚人を収監するための広い部屋だった
ある棟には手かせ足かせのような物があり
生存者が描いた絵の様子から
それをはめられた人が一面に敷き詰められ鞭打ちにあったようだ

独房は0.8x2mの非常に狭い仕切りの中に一人づつ入れられている
飛び降り自殺を防止のために網も貼られていたらしい
排泄物用の弾薬入れの鉄の箱もそのまま置いてある

レンガ造の独房の中にまで入ってみた
まだ血の後と地面にコンクリで固められた鎖が出ていた
胸が締め付けられ、呼吸が浅くなり外にでた
感じるのは「絶望」だった

CD棟には収監された人々の写真
処刑後の写真
実際に使用した処刑や拷問の道具
発見された頭蓋骨
2万人以上の犠牲者の中で生存した者(2人いると言われている)が描いた施設の処刑風景などが展示されている

以前は人骨でつくった地図もあったが、撤去されたらしい



この施設のセキュリティーと運営のために1976年に1684人が雇われた(支局を含む)多くの少年少女も参加したと聞く
しかし元看守だった人間も秘密を知り過ぎているため、多くの看守も囚人となり同じように処刑されたそうだ

わたしが生まれた年に
カンボジアでは多くの人が理由もなく拷問の後処刑されていたのかと思うと
もしカンボジアに生まれていたら自分も殺されていたのだろうと思う

多くの子供達もここで虐殺された
その数は2万人と言われている

この日は体調の悪くなるメンバーや
精神的にまいってしまったメンバーが出た

わたしがこの地で思った事
それは、知らなければいけない真実をきちんと見なければならないと
そしてリポートしなければならないと
そう感じた

この歴史を繰り返さないために





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