公立図書館の貸し出しにより本が売れなくなっているとして、大手出版社や作家らが、発売から一定期間、新刊本の貸し出しをやめるよう求める動きがあるという。先週、朝日新聞が報じた。


この根本問題は、新刊本を置くとか、置かないとかいうのでなく、図書館のそもそもの役割はなんなのかに行きつくと思う。コスト削減ばかり重視すると、蔦屋のようなスタイルになってしまう。あるいは他の委託でもいいが、そのために成果を求められ、来館者、貸し出し冊数という数の成果を求められる。これはいわゆる文化、教養とは対極にある部分で、じつはムダであったり、余裕であったりするところから、文化は生まれる。
 最近思うのは、本屋さんに行っても、まったく調べものの役に立たないということなのだ。同じ市内なら提携しているから、取り寄せもできるのだが、それでも圧倒的に調べものに値する資料がなさすぎる。
 とにかく新刊本や、それ以外の書店でもすぐ買える本、がスペースを占めている。私などスタコラサッサと図書館めぐりをしないといけなくなる。で、行きつく先は国会図書館か大宅文庫になってしまう。
 著者のほうとしては、図書館に新刊が置かれるのはうれしくもあるけど、やっぱこの程度の金、出し惜しみしないで買ってよ、と思う。金出したほうが、芝居もそうだけど、得るもの多いですよ。その一方、まあ本一冊さえ経済的な事情で買えない人もいるわけで、線引きは難しい。その意味で、どんな目的で図書館を作っているのか、原点から考えてゆかないと、新刊本を一定期間置くなというのは、対症療法に過ぎない。


本が売れる売れないも、図書館の件だけでないわね。かつては電車に乗っていると、誰かしら本を読んでいたけど、この前みたら、全員スマホいじっている。背筋寒くなるような不気味さを感じたね。マンガ本読む人もおらん。隣の人は何する人ぞっていう熱中ぶり。スマホいじるくらいなら、チンコいじってたほうが、よほど健康にいい。もちろん、右手にエロ本もって。これこそ出版文化に対する貢献ですよ。そこからフランス書院のエロ本文庫でもいい。活字に目覚めた人が、さらに谷崎潤一郎の「刺青」「痴人の愛」など読んで、チンコいじったほうがよほどまっとうです。想像力つきまっせ。私の部の先輩など、右手でマスかくときにも、左手にはダンベル持って腕を鍛えていたくらいだから、できないはずはアリマセン。

今月号の文藝春秋、教育論の特集。文科省の答申というのでしょうか、国立大学から文系学部をなくし、実用的な工学系などを重視すると通達されそれに対する特集。佐藤優と池上さんの対談は面白いのだけど、何のために勉強するのかという定義がある。そこに僕は違和感を覚えた
 というか、これは価値観の問題になるのだけど、僕は何かに役立つためとか何かのためにやるという考え方はキライ。ただ学びたいから学ぶ。知りたいから学ぶ。勉強することが好きだから学ぶ。そんなもんじゃないでしょうか。人にはもともといろんなことを知りたいという本能的欲求があって、それを満たしてゆくことは楽しいもんだと思う。そこに目的はない。
 二人の定義づけは文科省の方針を否定するように見えて、じつは大差ないんだね。そこに~のためという方針が打ち出されると、すぐに政治的に学びが利用されはせんか。だって、人によって~のためは、違うのだもの。
 格闘技だって、最初はケンカのためにやっていたけど、今はもっと深く技術を追求したい、そのことが楽しいからやっている、それだけです。
 僕はそれが文化だと思うんだ。遠藤周作も文化は無駄なところから生まれると言われていたが、教養もじつは高尚な遊びの部分があって、じつは大した目的はない。だけど、そんな余裕やゆとりは、人生を楽しくさせる。
 無用の用という言葉を反芻する耳朶に時代に来ていると思う
映画「就職戦線異状なし」を観る。91年の初夏に上映されてたやつやね。とても当時は面白くみたけど、もう少し主人公にたて糸通したほうががっちりする。今一つ何を言いたいのかが、おぼろげになった。学生なのだからいろんな価値観がもっとぶつかりあっていい。ストラッグルがないと、作品にパワーなし。何となく薄っぺらいエンターティメントいう印象。ぶつかり合いがあって、主人公が己の信念を貫くという意味が鮮明になる。しかし、仙道敦子かわいかったな。こんなに一人のことを思ってくれる女性がいたら舞い上がりますよ。
 時代は変わって、今、(映画の中での)織田裕二のようなスタイルの生き方は受け入れられないでしょうね。だけど僕はこういうのに男を感じるのだな。ただ彼は大きな仕事をする予感を感じさせます。
 かくいう私も、就職活動というものがわからず、4年の4月に就職部に行って「就職したいんですけど」と言ったら、会社案内のハガキとか聞かれ、「それなんですか?」だった。よくわからないので、官製はがきにかたっぱしから書いたら、まあ話が来て内定いくつかもらったけど。背広とか買うのめんどくさかったので、下宿の人に借りて、いないときは、学生服で受けた。最終面接でネクタイはから結び。理事の方に笑われて受けたね。
 就職しても背広は持ってなくて、結婚して女房がオーダーで作ってくれたけど、一回しか着ずに、なんだかネクタイ締めるのもかったるくなって、途中からネクタイ締めるのもやめた。それで辞めるまでネクタイなしで通せたのだから、まあありがたかったね。背広持たないサラリーマンもめずらしかっただろうね。
 今の学生たち見てると、すごく型にはめられかわいそう。そのせいか、発想自体も皆同じになっている。それでいいのかよと思うけど、それでいいという人が多そうだから、それも自由や。
 就職試験に学力テストがあるのも知らなかったし、受験会場で必死で参考書見てるやつがいたけど、アホに見えて、しょんべんしに行った。
 地理のテストに国の名前書く欄に「アラビア」と全部書いたら、アラビアって国はないんだよね。サウジアラビアだよね。正解は。そんな俺が内定取れた時代は、のんきだったけど、それがじつは正解という時代だったような気もする。

今どんな気持ち? 
ヤクルト優勝しましたが、これですぐ日本シリーズに行ってもらいたい。またガラガラぽんで、CS(クライマックスシリーズ)じゃ、どっちらけ。ファンのクライマックスの時期を逸する。よってクライマックスシリーズは、意気消沈シリーズになってしまった。クライマックスなんて名前は皮肉だよ。

でも下位チームは盛り上がらないでしょう? 
だけどさ、CSできてから、ペナントレース優勝の重みが薄れたんだ。だって世間の注目は日本シリーズ優勝に行くでしょう。

じゃ打開策は?
下位チームのために、終盤まで盛り上げることと、本物の強さを求めることは二律背反で両立しない。双方にいいものはないよ。プロフェッショナルだから、弱いもんは仕方ない。強いもんが勝つのがプロじゃないかい。僕らはプロ野球に何を求めているのだろう。強さか、それとも単純にどうなるかわからん面白さか。後者は商業主義、エンターティメントだね。プロ競技とはなんなのか、当然興業は絡むけど、そこをどう定義するかで、ありようが変わる。
 長期的に見て、プロ野球人気も落ちているし、視聴率も悪い。巨人戦もテレビ中継はなくなった。CSの効果はわからない。人気回復を考えるなら、単純に試合制度の小手先をいじるより、根本的なプロ野球のありようを考えないと。
 僕は巨人ファンだけど、どんどん選手とってきて、ついてゆけなくなった。かつての巨人は今ほどじゃなかったから、生え抜きの選手に気持ちが乗り移ったんだ。そういう点からも、考えていかないと、プロ野球人気の低下に歯止めはかからない。
 俺、パは南海ファンだったけど、もう4月下旬から消化試合だったよ。それでも応援してたもんね。若手の藤本修二とか、がんばれとか。ファンというものは、最下位であろうが、そういうもんです。だからCSによって固定ファンがぶれることはないのです。
 今年だったらオリックス、楽天が早々と脱落し、3位すら絶望的だけど、応援する人はする。仙台の人たちはやはり応援していた。チームが魅力的なら、やはり観客は来ますよ。

でもお客入んないじゃん?
ロッテが下剋上で日本シリーズ優勝したけど、これは日本一強いという意味じゃないよね。ただ日本シリーズという名のついた大会に勝ったというだけ。たとえば両リーグ3位のチームが、日本シリーズに出たら、何の称号を求めて戦うのだろう。シリーズで負けたチームは、リーグ優勝でさえないから、何も残らない。来年に向けて秋季キャンプすら十分にできない。CSは日本シリーズの意味さえ変えてしまったんだ。
 僕は去年森脇監督のからみで、オリックス応援したけど、CSの最中に「これでCSに勝って日本シリーズに出ても、そこで勝てなかったら、リーグ優勝でもなんでもないもんな」と考えて、ユーウツになった。

ほんとに妙案はないの?
ないね。観客動員法を求めてのCSだから、矛盾が出てくるのはしかたない。僕だったら、かつてパリーグでやった前期・後期制の二期制を提案するがね。ここで人気回復を求めて、昭和48年に前期・後期制を導入したパリーグが、なぜ元のワンシーズン制に戻したか、その経緯を考えてみることは、今後の参考になるだろうね。もうペナントレース後の、CSは興をそぎます。どのチームもペナントレース制覇に向けて準備をしてるわけだから、リーグ戦自体を尊重しようよ。プロなんだから。

母校に取材依頼の電話。ありゃ自動音声が。今日、大学休みだけ??最後まで聞いたら、昼休みは電話受付しないとのこと。なんじゃ。対外的な応対の部署でそれはいけません。しかも僕は午前11時45分にかけたんだよ。大学の事務職員の昼休みは11時30分~12時30分とは自分も職業柄知っていますが、11時台に自動音声は、世間の流れに対応する部署として絶対におかしい。はっきり言って、外部の方にこれではイケマセン。

 こんなふうだから、だから大学職員はって、民間の人に言われるのですよ。

 僕が勤務していた大学は、キャリア支援にしろ、広報にしろ、学生対応の部署にしろ、交代で昼休みを取り、窓口はつねに開けていました。15年くらい前からです。

それがステークホルダーや学生に対するサービス向上ってもんです。

 いつぞや、ある部屋を会合で使うために、予約しましたが、やんごとなき事情があってキャンセルしました。申込金は返してくれるという約束だったので、そのこと言いましたら、「今日はお金の担当がいませんから、返金できません」。その日は土曜だったので、「平日の昼に来てください」と平然とのたまったので、その場で怒鳴りました。「そんなの言い訳にならん!!誰が来てもいいように、担当が休みのときはきちんと引き継ぐもんです。そっちの都合を押し付けて、申し訳ないもないのか!!こちらは社会人、昼にこれるわけがない」

 もっとも初歩的なことです。ああー取材の対応きちんとやってくれるのやら、心配だ。

 これは母校を愛するゆえの愛のムチです。本当に、母校の評判を上げるためにも、努力をしてくださいね。母校の発展を心から祈りますから。

さて共産党が次回の選挙で他党と協力するとのこと。今回の安保法案で相当な危機感を持った、と言えるだろう。
 そこで私が思ったのは、今回の一連の反対運動の中で、集団的自衛権そのものに反対の人がどれだけいたか、気になった。
 一連の反対運動は、以前も書いたけど、審議の手続き上から法案の可決に反対する人、手続きもよくないけど、そもそも集団的自衛権の行使に反対の人が入り混じっていた。マスコミも、街頭インタビューで「反対か賛成か」二区分で聞いていたから、一件反対と区分けされた人が「集団的自衛権も反対」というイメージを与えてしまった。だけど、これも田母神さんの事例で話したように、賛成とされた方の話をよくよく聞くと、集団的自衛権の行使には賛成だ、というだけで、手続きそのものについては言及していない人もおられる。「こういう時代だから武力は必要」という人も、手続きについては話していない。すると、反対になる可能性もある。
 ここから僕の私観になるけど、立憲国家、民主主義の崩壊という点と、集団的自衛権の行使に反対するという点、どちらを重視するのか、ポイントになる。さて、今後どちらでいくのだろう。
 民主の中でも共産と共闘することを嫌う人もいるし、維新の党は、むしろ集団的自衛権を戦争法案と呼ぶ人はいないでしょう。
 つまり今回の反対の要素は、一概に反対と言っても、以下の分類にわたってしまう。
 ①審議の手続きに反対、集団的自衛権の行使にも反対。
 ②審議の手続きに反対、正当な手続きにのっとって議論すれば、集団的自衛権の行使には賛成。
 これを幹にして、かなりバリエーションが広がる。
 ①の変形で、これに個別的自衛権の可否も出てくる。
ネオ9条賛成派(造語ですけど)は、
 ①ー1手続き反対、集団的自衛権反対、個別的自衛権も反対
 これは本来の共産党の方針であり、社民党もそうではないかな。もうひとつは、
 ②ー2  〃  、〃       、個別的自衛権は賛成 
 これは、どちらかと言えば、民主の左寄りの人たちの意見でしょうか。
 今回の憲法学者の声明は、集団的自衛権そのものに言及するより、手続きを問題視したから②になる。①かどうかは、わからない。
 マスコミの効き方も今回の法案に賛成か、反対かという聞き方をしていたから、ごった煮なって、正確な街の声がどこにあるのかわからない点もあった。識者の意見も、根がどこにあるのか、今一つ理解できない。
 乱暴と言えば乱暴な聞きかた。じつは大事なことは、この機会に、安全保障についてどうしたいのか、ここを締めていかないと、共闘して選挙に勝ったはいいが、その後どんな法案にするのと、行き詰るのは必至。
 焦眉の急として、今回の法案を無効にすることはよくわかる。同時に、手続きの件以上に、我が国の安全保障そのものが、僕はコアな問題だと思うよ。手続きの問題は、わきにおいて、自衛権を個別的自衛権、9条の文言通り自衛隊も放棄する、集団的自衛権、法案と違った形での集団的自衛権、これらについて、どうしたいのか、皆で広く考え、方向性を模索する行為が大事です。
 選挙は戦術もあるから、折り合いや摺合せは必要としても、共産党の姿勢を活かすためには、この点は大事。
 せっかくの高まりを見せている反対運動。さらに次の段階に行くには、この根の部分を話し合ってゆくと、もっとがっちりしたものになる。

じつはこの一文を書いている自分も、かなりおそるおそる書いている。もっとはっきり書くつもりが中庸の精神になってしまった。どこかで、いろいろ言われるのを怖れているんです。自分の立場を表明することに。これは多くの人もそうなんじゃないか。ここから逃げずに、正面から論議することが大事なことだと思った。

また体罰ですね。滋賀県のバレーボールクラブで、2012年に小学校4年生だった女子が、受けたとのこと。男性コーチが、8人の部員に彼女の顔を叩くように指示、嫌がったので、背中を叩いた。

 以後、彼女は心を病んでしまった。略式告訴で罰金命令も出たが、コーチたちは不服として裁判に提訴するとのこと。監督も、他のコーチも、男性コーチの振る舞いを黙って見ていて、止めなかったそうだ。


結局、桜ノ宮高校のバスケ部の生徒の死は何も生かされなかったということじゃないですか。あれだけ体罰のむごさ、禁止をうたいながら、裏では一向になおっていない。

 本当に根深いですね。僕の耳にも、体罰は必要との声は聞こえているし、体罰を受けた子が弱すぎるという声もある。しかし、暴力に弱いとか、強いとかの理屈はないでしょう。


僕も中学時代に体罰は受けたし、他の生徒が激しく殴られるのも見た。確実に言えることは、なぜそれほどまでに自分が殴られなければならないのか、今でもさっぱりわからないことだ。ということは、思い出したくない傷として何十年も残っていることだ。こういう人はすごくいると思う。


膿を出し切るため、実際に体罰もとい暴力をふるった教師たちに出てもらって、あれを正当化するなら世間に主張を言ってもらいたい。これらの声が表に出ないから、根絶できず、地下に潜るのだよ。

体罰は一方的に禁止という方向ですすめても、一方通行になる。なぜ体罰は必要か、ふるった側との意見が交換されて、はじめて意味をなしてくると思う。そしてふるった側は今も責任はある。肯定論の考えを言う義務があると思うよ。

 どうどうと出てこい。悔い改めるなら、それを表現しろ。それが今の指導者に、いい影響を与えると思う。

 こんな体罰の現況見て、その責任はあなたたちにもあるのです。

 陰で「でもやっぱり必要だよね」と言っちゃいかんのです。たぶん、やっているんでしょう。見えないところで。堂々と言いなさい!!


 こんな事例は軍隊でもやってそうだね。
処分を不服として裁判に提訴するというのも、往生際が悪すぎる。こんな大人たちを見て、子供が正しく育つわけないでしょう。


まったく愕然とするほかはない。



 今回の憲法学者の見解は明らかに手続き上のことで、これも重大な問題ですが、だけど手続きを踏めば、集団的自衛権の行使も可というのであれば、私の考えとは少し遠くなります。そもそも反対の方は、いわゆる日本が武力国家になるのに危惧を覚えるのか、きちんと憲法改正をして、十分審議すれば、集団的自衛権を持つ国家になっても構わないのか、そこらを整理しないと、あるいは、方向性を決めないと、今後の活動が混とんとしたものになって行き詰ると思います。平和なのか、手続きなのか、これは別物のような気がするのです(リンクする部分もあるけど)。
民主が対案出せなかったことも、このことと無関係ではないでしょうね。議員の中でも、上記の区分けがひとまとまりになっていますから。

 ここまでの活動は、ある種呉越同舟で、一律反対で良かったと思いますが、今後混沌としたハンタイをどういう方向性を打ち出していけるのか、難問という気もします。


 話は変わりますが、赤穂浪士の討ち入りを連想しました。あれも、仇を打つことは同じだが、武士のメンツのため、内匠頭個人を私淑するため、手柄をあげて士官するためと、理由が混沌とし、脱落するものもいたと聞きます。大石良雄が、まとめたわけですが、そういう手腕を持ったリーダーが必要な気もします。同時に一人一人の理解が進むことも大事でしょう。

 たとえば今回法案に賛成した議員に投票しないという運動をするとして(これは大事であると思います)、数年後、別の政党が、第一議席を取ったとする。さて、そこからどうするか。反対のための反対に終わり、有益な対策が出せないで、座礁することもありえるだろう。法案が通る前の、状況に戻すままでいいのか、もう一度法案を十分に審議を尽くして、是非を問うのか、これは大きくわかれますね。憲法解釈というが、法案が通る前の状況だって、現実に自衛隊は存在しているわけで、これも解釈です。共産党みたいに、じつにシンプルになればいいけど、ここらはいろんな考えがあるし、あっていい。だから急がば回れで、これをよい機会として、私たちも安全保障について、十分に審議をする必要があると思う。互いの理解を深めることが、反対運動をより堅固なものにすると思う。

 残念ながら、今までここらの論議が世代間を超えて、広く十分になされていなかったので、大事なポイントになるでしょう。

 

 今回は多くの若者が立ち上がったことは、とても素晴らしいことでした。この問題意識をもっていただけたことを、次はさらにどう進めてゆくのか、ワンランク上げる段階になりました。それは大人と呼ばれる世代も同じです。このステップをどう上げるかで、さらに強力な運動になると信じています。

TBSの報道特集を見る。僕が気になったのは、些末かもしれないが、今回の安保法案の賛成、反対の区別が、①国会上の手続きに対する反対、賛成なのか。②それとも手続き上の是非はともかく、集団的自衛権が行使できることそのものに反対、賛成なのか、交通整理が必要かなと思った。もっと突き詰めれば、個別的自衛権には賛成という人もあるだろうし、憲法改正を行うことに賛成で、かつ改正すれば、集団的自衛権の行使は賛成という考えもある。ここらが、これまでの報道、ニュースを見ていてはっきりしなかった。
 子供を戦場に送りたくないと言って、デモに参加された母親は、たぶん②なのかなと思う。立憲国家の崩壊という意見を述べられた方は、①になるだろうし、②にまたがる人もいるだろう。

自衛隊員の家族の方が、戦場に行くのは心配と言っていたけど、これは②ですね。
 また個別的自衛権は、必要(つまり今のままでいいということ)という人もいるだろうし、厳正に憲法九条に乗っ取り、武力というより自衛隊も必要ないという人もいるだろう。

 つまり一律に反対と言っても、いろんな事象が混在して、ひとくくりにできないわけである。
 今日の番組では田母神さんは、法案に賛成という立場で話されていたけど、本来は憲法改正が必要との見解を話されていた。すると一概に、田母神さんは賛成の立場と言えなくなる。①に関して言えば、ほとんど9割がたが、手続きに関してはおかしいと思っているのではないか(武力を持つことは必要と思っていても)。ここらを区分けし、国民がどのような状況を望んでいるのか、明確に知りたいと思う。ここらは新聞やテレビを見る限り、混在して、わかりにくい(想像はできますが)。
 ここがこんがらがると、いわゆる対案を出すことは困難になるのではないかな。あるいは対案の内容を薄くしてしまうのではないかとも思う。さてどこに対案が収斂されていくのだろうか。ニュースのコメントは要点を切り取るから、細かくはわからないけど、そんなこと思った。

頭ぼやーっとして原稿進まず、(体調悪し)、某テレビのワイドショーを見てました。阿蘇の噴火、どの程度かと思う。阿蘇火山研究所の顧問の方が、警戒区域4キロはかなり安全をとってのこと、警戒レベルもそれほど心配はなく、計測上も過剰に心配することはないことを淡々と話される。たしかに、あそこはしょっちゅう噴火するし、去年帰省したときも火口まで行けなかった。自然に絶対はないから、顧問の方も「私はそう考えます」といたって冷静。
 で、アナウンサーは「火砕流がどっと流れたりとかないんですか」とやたらと危険をあおる質問をする。「それは今のところは考えられませんし、そこまでは」と答えると、さらにオーバーな危険をあおるご質問をこれでもか。何とか盛り上げようとしようとしたのだけれど、肩すかしでしたね。
 たしかに私たちは慎重であらねばなりませんが、過剰であってはならない。われを失ってはならない。コメンテーターから、ドラマティック、盛り上がる言葉を引き出そうとするのはよくありません。私たちはこのようなとき、まず事実を知りたい。事実を伝えてもらいたい。それが判断の材料になる。「ほんとにそれでいんですか」というのは、不安というより、あおりたくて仕方ないように見えた。逆に、コメンテーターの話す言葉の根拠をさらに突っ込み、「つまり、これはこういうことですか? だから、そうおっしゃるんですね」と聞くなりして、事実を適切に伝えることが大事なのではないのかい?
 もう、アナウンサーのこれでもかというあおるやり方は品がなかった。
 今回の豪雨で、大きな被害を日本は受けました。あわてず、冷静さを失わないように、教訓にしていかないといけません。マスコミは、視聴率の片棒を担ぎ、本来の目的を失っちゃ、今回の災害で犠牲になられた方に大変失礼だよ。