ずっと行きたかった宇都宮へ行ってきました (ほんとは遠出して萩とか行きたかったけどね、夜には仕事しなくちゃいけない状況なのでね・・・)
さて、宇都宮ですが、戊辰戦争中、土方さんたちは私の住んでいる市川から向かったということなので、(電車とはいえ)私も同じルートで進軍開始朝には快速ラビットがあったので、2時間弱で着きました。
今回は久々の史跡巡りだったのもあり、あまりいつものようには無茶なスケジュールにしなかったので、朝も普通に9時半に宇都宮着の電車で行きました。宇都宮には1日100円(電動なら300円)でレンタサイクルができるシステムがあるので、さっそく駅の駐輪場にて手続きして、ママチャリをゲット1日お世話になりました自転車があるのとないのとでは時間がかなり違うので、おすすめですよ~。車だと駐車場とかも考えなきゃいけないからね・・。
この日は曇りで、久々に涼しく、史跡巡り日和でした~ママチャリをゲットした私は迷わず駅から南下していき、目指すは簗瀬橋
慶応4年4月19日、下総市川の国府台から次の戦闘地である日光廟に向けて行軍中だった旧幕軍ですが、土方さん率いる別動隊(新選組、桑名藩兵、他)は菱沼村にある満腹寺に陣を置き、19日未明に進軍開始。午前4時頃に砂田村に到着し、そこを守っていた彦根藩小隊を急襲。彼らを退かせ、勢いに乗った土方さんたちはそのまま宇都宮藩主力の1番隊が備えていた簗瀬の背後に進撃し、撤退させた。その際、彼らは田川を渡す橋を破壊しなかったため、旧幕軍はなんなく宇都宮城下に押し寄せました。土方さんたちは道すがら豪農の家に火をつけながら進軍したため、宇都宮城下はあっという間に火に包まれました。この簗瀬橋は進軍の際に土方さんたちが突破した橋と言われています。(なので私もここから始めたかったのです)
今ではそんな面影など何もなく、史跡らしいものもまったくなく、のんびりとした橋ですが、土方さんたちが通った・・と思いながら思いを馳せると、こののんびりした風景が一気に火中になり、死にもの狂いな男たちが進軍していく姿が目に浮かぶので不思議です
さてさて、簗瀬橋を突破した土方さんたちはその後寺町を放火し、英巌寺に軟禁されていた江戸幕府元老中の板倉勝静を救出します。(板倉さんはその後箱館戦争まで共に戦いました)そして宇都宮城中河原門、下河原門を攻めますが激戦となります。
位置の関係上、簗瀬橋を渡った私はまず、この下河原門のあった場所へ。簗瀬橋渡ってから自転車で2~3分のところにあります。当時の面影はまったくありませんが、ここの道を進み、突き当りを右に折れると・・・
右手に見える須賀神社(神社といっても、ふつうにちっちゃいほったて小屋)が目印です。
今では何もないふつうの小さな路地ですが、ここでは壮絶な攻防戦が繰り広げられ、旧幕軍も新政府軍もどちらにも戦死者や負傷者が出ました。土方さんは、壮絶な戦いに怯んだ自軍の兵を斬りつけて士気を保ったという話は有名ですよね。(桑名藩戦記に記されています)これはここ、下河原門か簗瀬橋かどちらかと言われています。後日、この兵士を丁重に葬るように幼馴染の土方勇太郎さんに頼んでいるあたり、土方さんの優しさを感じ取ることができます。
ここでも思いを馳せていたんだけど、近所の人にじろじろ見られたので次の場所へ・・ 自転車で5~6分行った場所にあります、英巌寺跡です。
ここは宇都宮藩主戸田家の墓所がある場所です。宇都宮城下に放たれた炎は英巌寺にも燃え移り、焼失してしまいました。その後再建されることもなくわずかに残された地に戸田家の墓所が残されているだけなのですが、とにかく荒れ果てた空き地にしか見えず・・・。切なくなりました
「英巌寺児童公園」なんて名前がついているのですが、とてもじゃないけど子供遊べませんから・・・
この鳥居も焼失したのでしょうね、明治8年に建てられたものでした。
で、鳥居をくぐるとそこは・・・ただの空き地
わずかに、戸田家の墓所や水戸役戦功の碑があるくらいです。
この人は本当にかわいそうな人です。9歳の時に戸田家の跡を継ぎ、天狗党の乱のときの宇都宮藩の行動もろもろの責任を取らされて幕府の怒りを買ったり、なんだかんだ・・・。戊辰戦争の時は新政府軍側で頑張りますが、病にて、22歳の若さで病死。
忠恕に跡取りがいなかったため、養子として戸田家を継いだのが忠友。
そして空き地をさらに進むと、あるのが(あったはずなのが・・・・)イヌツゲの木。
戊辰戦争で英巌寺は焼失したのですが、このイヌツゲの木だけは戦火を免れ残っていて、つい最近(?)までとても珍しいくらい大きく育っていたそうなのですが・・・なんとばっさり切られてました誰も手入れしないから枯れちゃったのかしら・・・当時を忍ばせる唯一のものだったはずなだけに、切ない・・
さて、切ない場所が多いですが、感傷にひたってる場合ではないので、次へ進みます。次に向かったのは、松ケ峰門跡です。
・・・はい、残っているのはこの柵で囲まれた木のみですけど、何か?何度も言いますが、戊辰戦争時、宇都宮城下は火中でしたので、ほとんど焼失してしまいました。旧幕軍が奪った宇都宮城ですが、新政府軍側には土佐藩や救援隊も加わり勢いを取り戻しました。この際に土方さんが守備していたのがこの松ケ峰門です。お城の西側にありました。ここもかなりの激戦地であったため、ここで土方さんは足に銃弾を受けて負傷し、戦線離脱を余儀なくされ、会津の清水屋旅館にて療養することになります。
さて、この松ケ峰門のすぐ近くには宇都宮城の遺構である土塁がある(はず)なのですが・・・
・・・右上のフェンスの向こうの草ボーボーの地に土塁があるはずなんだけど葬儀屋さんが建ってしまっていて、まったく見えませんでした必見なはずだったのになぁ。
さて、気を取り直して、宇都宮市の西側方面へ向かいます。・・・といってもチャリなので、10分かかるかかからないか・・・。とっても動きやすい街、宇都宮
目指したのは、光琳寺。
こちらのお寺では、旧幕軍の桑名藩士の墓と、新政府軍の因幡藩士や山国隊士のお墓があり、それが向かい合って建っているという珍しい光景が見られるというのでやってきました。
まずは本堂にお参りを。
本堂にいくまでの参道の右側に小さな鳥居があります。(お盆準備で剪定真っ最中でしたので、脚立とかあるけど・・・)こちらは宇都宮の戦いで戦死した新政府軍の因幡藩士と山国隊士の官修墓地(合葬墓)だということです。こちらに眠っているのは7名です。
そしてこの墓地の横にあった句碑。
長岡藩主牧野忠敬公夫人の詠んだ句だそうですが、心にしみます。まさにその通りなのよっ!って思わず叫びそうでした
で、その新政府軍の官修墓から振り返ると・・・
みんなそれぞれ国のためにと思って戦って朽ちていった者たち・・・。死んでしまってから仲良く向かい合ってお墓があるという。なんだか感慨深いですよね。
さて、その光琳寺さんから自転車で1~2分のところにあるのが、六道閻魔堂。
このあたりは、江戸時代に壬生や佐野、楡木などから宇都宮城下へ向かう六本の道が集まっていたそうで、仏教でいう六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六世界)になぞらえて、六道と呼ばれていたんだそうです(案内版より)。さきほどの光琳寺の和尚さんが元禄14年にお堂を建てて閻魔大王を祀ったのが始まりとされていますが、戊辰戦争時にこちらも焼失してしまったので、現在のお堂は明治39年に建て直したものだそうです。
こんな、普通~の交差点なんですけど、ここは六道ノ辻と呼ばれていました。慶応4年4月23日に新政府軍は宇都宮城奪還のため、栃木街道を北上します。この六道ノ辻は宇都宮城下へ続く要所の一つで、旧幕軍はここでも守備を固めましたが、新政府軍の持つ最新の砲弾に敗れます。かなりの激戦地だったようで、戦死した新政府軍は近くの報恩寺に丁重に葬られ、立派な墓碑が建立されましたが、旧幕軍は賊軍と呼ばれ、土地の人々によって仮埋されたまま、供養もされずにいましたが、明治7年に戸田三男をはじめとする士族と付近の住民14名により、戊辰之役戦死墓が建てられました。