今が人生史上一番父と仲が良い。
月1くらいでご飯に行ってお茶をしている。

父は会計に時間が掛かったり
ペットボトルのギャップを捻れない自分に
ガッカリしている。

会計でもたついて後ろの人に迷惑を掛けることを
気にしていると言う。

「いい加減うんざりしてか、
『手伝いましょうか』って申し出てくれる人もいる。
優しい人が多いけど、そんな自分にいやになる」
みたいなことを言っていた。

私なんかはスローモーすぎるお年寄りに対して
何で用意しておかないんだろう、なんて
心無い考えをしていたなぁと思ったのだ。

父という大事な存在であるからして、
私はようやく気付かされたのだ。
相手を慮るとか。気遣いとか、思いやりとか。
こうして人は成長するのかなと思ったよ。

世の中の人も、
元々優しい人もいるだろうけど
老いとか病気とか、
自分の身におこることも、
家族におこることも、
そういう経験を通して
優しさを身につけたのかも知れないなぁと。


そんでですわ、
今日も今日とて実家でゴロゴロと
普通の退屈な夜を過ごしてきたわけ。

ご飯を食べて
下らん話で笑って
犬と遊んで。
帰る時に犬を上階へ連れて行って、
しばらくしてのぞいてみると
階段のてっぺんで不服そうに見下ろしている。

なんとも退屈な日常の夜である。
そしてなんとも幸せな夜である。

以前は実家に父がいて、
帰る時には歯磨きなんかをしながら
玄関まで来て憎まれ口をきいて、
フン!ガチャ!って玄関を閉めたりしたものである。

あるいは、笑いながら
「気を付けろよ、じゃあな」ガチャン
っという時もあった。
数えきれないほどあった。
永遠に続く日常風景だと思っていた。
しかし時代は終わる。


決して永遠に続くことはないんだという理解が
頭だけじゃなくて心にまで降りてくる。


姪っ子が小さかった頃も然りである。
なぜ私が、と、時にうんざりした日々。
それがなんといい時代だったかと思う。

海賊公園の祭りの音と焼きそばの匂いが
遠くに感じる。
記憶の中の永遠の夏、そこには戻れない。

こすりつくされた映画の題材とかであるけども、
もし戻れるならどう過ごすだろう?

10年後?20年後?30年後?
振り返ったら、
あの時に1日だけでも戻れるのならって夢想する
そんな1日に今いる。

今の日常がどれだけ貴重なものであるかを
知ったのだ。

もしよ、犬に電光掲示板がついてて、
残りの時間を刻んでたら?

ぬいぐるみを咥えて、大きな丸い目で期待して見てる犬を無視してスマホを見たりしない。


でもそれをやりがちなんだ。

若さの熱が冷めても、(とっくに冷めとるわい)
優しい人間性が含まれていくのなら
それも悪くない。

人生というものの
本質的な価値が分かるようになるのなら。

死ぬ前に後悔するようなことを
今後悔できているのはいい事である。

出し惜しみするのはやめるのだ。