午後、散歩に出かけた。どこを歩いても妻との思い出が蘇る。遊歩道の脇、2メートルほど下に舗装されていない、もうひとつの散歩道がある。歩き疲れてベンチに座り、休憩を取る。嗚咽を漏らした。ここ数日、泣くことはなかったが、ふと思い出して目頭が熱くなった。あたりに人はいない。少し声をあげてしまった。

仏壇や納骨のこと、四十九日はどうするか。香典返しが終わり一段落ついたかと思われたが、まだやることはある。身が入らない。仕事は2月に入ってからの計画だが、早く済ませたい気持ちもある。しかし、集中力が欠けているので、進まない。途中で投げ出し、昼食を取ったあと、外に出た。

午前、2か月に一度行っているクリニックに足を向けた。降圧剤などをもらうためである。診察の時は必ず血圧手帳を持参し、医師に提出する。妻が亡くなった先々週の欄は、3、4日ほど記帳がない。主治医はそのことには触れなかった。

妻のことを報告しておこうかと考えていたが、やめた。聞かれもしないことを言う必要はない。医者も不幸な出来事を聞きたくはなかろう。いつもは軽口を叩いて終わるが、きょうはほとんど会話しなかった。

こうやって他者との会話が減り、内向的になっていくのだろうか。それが一番怖い。まだ亡くなって2週間である。悲しいに決まっている。喪失感はなかなか払しょくしきれない。

就寝中、大声で寝言を言ったようだった。その声で目が覚めた。賊が侵入し、飛び起きて助けを求める声だった。賊の手に鉈のような凶器が握られていた。妻が友人へのLINEに「もうすぐ、いやな消灯が始まる」と記していた。暗闇が怖いのだ。私もいま、布団に入るのが怖い。

家の中にいると介護の日々を思い出し、外に出れば散歩した記憶が蘇る。けっきょく、どこに行っても辛い思い出は消えない。私が先に死んだら妻も同じように喪失感を味わうのだろうか。芯の強い妻は、私のようにメソメソしなだろう。

老夫婦が腰かけている。夫はスマホを操作し。妻は遠くを眺めている。妻が生きていたら。悲運を嘆く。