商売で失敗し財産をなくしたじいとばあは、古い貸家に住んでいた。
この家は大家さんの元自宅で取り壊すより貸しておこうといった物件なので、大きい割には格安だった。
しかし、壊れても大家さんが直してくれるということはなく、すべて自前で手を入れながら暮らしていた。

じいの下の始末があやうくなってきた頃、トイレのにおいがひどくなった。
お掃除のヘルパーさんをお願いしようと私が提案しても、ばあは他人を家に入れるのを嫌がった。
よく見れば、トイレは悲惨な状況だった。
取り敢えず一回徹底的にきれいにしなけば、ヘルパーさんにもお願いできないと思った。

消臭剤は山のようにあったが、便器磨き用の洗剤はなかった。
臭いを消すことは考ても元をきれいにしていないのだと思った。
トイレの奥の方に雑巾や古タオル、予備のトイレットペーパーが押し込まれ、それらは全て湿ってにおいを放っていた。
掃除用ブラシも3セットも出てきた。
ばあは、ものを捨てることができない。
ついくどくど言ってしまうと
「こんな古いトイレで、じいの世話が大変で、きれいにできるはずはない。」
と怒る。
「『こんな古いトイレ』って、1年くらい前に便座が割れてしまって新しいのに付け替えてあげたじゃない。」
という言葉が出かかったが、やめた。
忘れてしまったのか?!
ばあの認知もあやしいところが出始めていた。
ばあの要支援認定で医者の検査に同行した時も、認知能力の衰えは思っていた以上だった。

自分は、毎日フルタイムで10時間以上も働き、病弱な夫と病を抱えた受験生の息子の世話で精一杯、老親を顧みる余裕はなかった。
何しろ貸家は広いので、お客さんが来る部屋以外はごみ屋敷状態になっていたが、見て見ぬふりをしてきた
トイレの状況を見て、そのつけが回ってきたことを思い知らされた。

ともかくトイレを片し磨き上げ、床にものがない状態にして、じいが失敗してもきちんと拭き取れる状態にまでした。
そして、定期的にヘルパーさんに入ってもらい、きれいな状態を維持できるようになった。

それが、昨年の夏頃のこと。
今度はじいの退院に向けて、介護ベッドを入れる場所を確保しなければならなかった。

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認知症薬の副作用で足腰が立たなくなってしまったじいだったが、日に日に回復していった。
目は虚ろだったが、持ち前の愛想はよく何かしてもらうと「ありがとう、ありがとう」という言葉は欠かさなかった。
歩けるようになれば、また家で暮らすこともできる。
病院にいれば何も思い出せないように見えた。

「囲碁がお得意とのことでしたが、見せても何の反応もなかったですよ。」
作業療法士さんは事務的に言った。
どうせ、碁石や碁盤を見せて「これは何ですか?」って言ったのに違いない。
それが何か言えなくても、碁石を定石通り並べ始めればじいはどんどん打つことができるだろうと私は思った。
素人がでたらめ並べたら、混乱して何もできなくなってしまうかもしれない。

1日も早く退院してほしい病院と、ここにいればじいは何もできない人扱いになってしまうという危機感を持つ家族と利害は一致した。
胆管がんの末期といっても、そちらの症状はほとんど出ていないのだ。
このまま病院にいればじいはどんどん呆けてしまうだろう。
転院という選択肢は考えられない。
退院すれば、また囲碁やハーモニカもできるようになるのではないかと思われた。
がんが悪化するまでは、自宅でじいらしく過ごさせてやりたかった。

幸いにも、じいを担当しているケアマネさんは、親身になってくださる方だった。
病院の社会福祉士さんから連絡を受けたケアマネさんはじいの余命を聞いて驚き、じいが在宅で暮らせるようにすぐ手配してくれた。
これまでのお掃除・お洗濯に加え、おむつ替えや着替えを毎晩手伝うヘルパーさんをお願いすること、介護ベッドを入れることを来週にでも間に合うようにしてくれた。


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国立大学医学科を目指すも成績がどんどん振るわなくなり難病のナルコレプシーと診断された一人息子。
二浪し紆余曲折を経て私立医学科に合格。
(それまでの過程は、前ブログから引っ越し中)
ナルコレプシーの対症療法薬が身体に合い、今では医師を目指して勉学に励み大学生活を謳歌している。

ようやく息子が自分の道を歩み始めほっとしたのもつかの間、母(=私)の実父のじい(85歳)は、認知症が進行し下の始末がおぼつかなくなってきた。
そして、今年の3月、認知症の薬の副作用が出て病院に緊急入院し、薬を服用することもできなくなった。
その上、胆管がんの末期だということが判明した。
そんな重要なことを家族に伝えるのを忘れてしまう大病院。
そして認知症も胆管がんも治療することは何もないから早く退院してほしいとのお達し。
マニュアル化された病院のシステムの中でじいの記憶はますます混乱していた。
春休みで帰省していた息子は、じいの世話に付き合うことになる。
医師との面談にも同席した。
6月までの記事である。

リアルタイムで記していないため、じいならずともどんどん記憶があやうくなってくる。
息子の受験記も、ブログに記していなかったら半分以上忘れてしまっているのではないか。
だから、記憶がうすれないうちにじいのことも書き記しておきたい。

だいぶ間が開いてしまったが、「じいのこと」に話を戻すので、今しばらくお付き合い願えれば幸いである。


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息子が犬の身体を確かめるように触る手は優しく、何ができるわけでもないが、こういうのがまさに「手当て」なんだろうと思った。

息子が帰ってきてから、犬は再び鳴くようになった。
けれどもそれは哀れな声で、夜中にも2時間おきに鳴くようになり、そのたびになでてやると寝入った。
そして立ち上がることもできなくなって二日後、犬は虹の橋を渡った。
その日の朝まで、口元にやった牛肉を食べていた。

息子がきれいに処置してやり、ヒマワリや色とりどりのの花でいっぱいにした箱に入れられ、荼毘にふされた。
大きくて既成の段ボール箱では入らず、汗だくになりながら手作りした。

動物専用の火葬場では、お線香もあり、お骨も二人ずつ人間のように丁寧に拾った。
しばらくしたら、庭に埋める。

犬小屋の周りを片付ける。
家族のだれもがそこを通りかかるといつものように様子を伺ってしまう。
犬の影が見えるような気がする。

息子が帰ってくるのを待って逝ったんだ、よかったねと皆言った。
本当に・・・よくがんばったね。
15歳、大往生である。

しばらくして犬は、私の夢の中に出てきた。

死んだ人は、必ず私の夢に出てくる。
事故で急逝した義父は、庭仕事の服装で軒下に座っていた。
でも、腰は浮いていてわずかな空間が見えた。
夢の中でもこの世の人でないことがわかった。
末期がんで食が細くなっていた親友は、夢の中でおいしそうに食事をしていた。
私は「食べられるようになったんだね。」と喜び親友が微笑んだ瞬間、目が覚めた。

犬は、そばに寝そべっていた。
白っぽい毛が見え、なぜか目をつぶって手を伸ばした。
柔らかな毛の感触、夢でないかと疑っていたが、その身体は暖かく、間違いなく家の犬だった。
抱き寄せた時の重みの確かな感覚・・・が、それは次第に溶けるように薄れていき、私は目が覚めた。
手の中には何もなかった。。。

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一人息子の兄弟代わりに、15年前、犬を飼い始めた。
息子の同級生の家からもらってきた雑種である。
洋犬のような母犬だったが、もらってきた子犬は、母犬より大きい紀州犬のような犬に育った。
外飼いで家族以外にはなつかず激しく吠えるので、番犬にふさわしい犬だった。
「お手」が好きで、家族には自分から手を出してくるほどだった。
あまり、しつけていなかったので、それ以外は「お座り」「ご飯前の待て」ができるくらい。
この頃は外耳炎に悩まされ、獣医さんからは
「この大きさでこの年までがんばっているのはすごい。」
と言われていた。

今年になって衰えが目立ってきた。
昨年から、好きだった犬小屋の屋根に上がれなくなり、「待て」ができなくなり、「お手」もしなくなり、できないことが増えた。
暑くなってくると食欲がどんどん落ち、7月には、息子が帰省するまで持たないのではないかと思われた。
とんと鳴くこともなくなってしまった。
獣医さんにも
「残念ですがお役に立てることはありません。」
と言われてしまったが、それでもと食べられるものを試してみた。

食欲大せいで何でも食べ、いわゆる「犬まんま」とドッグフードを主食にしていたので、
息子が家を出てから家で一番米を消費しているのは、犬だった。
主食を食べなくなり、鶏肉なら喜んで食べるようになった。
それも今一となり、次は豚肉、次は牛肉とグレードアップしていった。
少しでもカロリーのあるものと、これまではご法度だった甘いものなども与えた。
アイスクリームは喜んで食べたが、それも食べなくなった。

それでも、散歩には行きたがった。
7月下旬にはまた牛肉を食べるようになり、食べたり食べなかったりする日が続いた。
8月になって散歩にも行けなくなったが、息子が帰省する日の朝、また牛肉を食べた。
ドッグフードも口にした。

そして、息子と対面。
息子になでてもらい、身体をきれいにするなど世話をしてもらって、犬は嬉しそうだった。
息子は、生き物の身体を扱うのに手慣れた手つきで、解剖実習を経験すると違うものだなと思った。

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色々あってだいぶ間が開いてしまった。
明日は息子が帰省する。
その後も多忙な日々が続きそうで、このままでは放置ブログになってしまいそうだ。
ということで、息子が帰省すると書けないので、今のうちにちょっとだけ書いておこうという気持ちになった。
書きたいことはたくさんあるのだが、時間がない。

さて、今回は話を医学科とナルコレプシーのことに戻す。

先日息子の中間成績表が送られてきた。
全て「可」以上で追試なし、あっぱれである。(ふつう?)
息子が自慢していた通り、好きな実習系の科目は全て「優」であった。
仲間の作業の手伝いや学習のアドバイスまでしていたということである。

しかし、あやしい科目もあった。
学期の中間に送られてきた出席表で、不可ぎりぎりの出席しかしていない科目があったのだ。
「どういうこと?大丈夫?!」
驚いて電話すると
「最初寝坊しちゃってやらかしたけど、今は大丈夫。」
と本人は全く動じた様子もない。
「徹夜もできるようになった。」などと言っていたが、やはり午前2時過ぎまで起きていたりすると次の日、全く起きられない日があったようだ。
「続き時間の講座だったから一気に欠席時数が増えちゃったけど、警告があったから色々対策考えて今はもう必要出席数に達しているから。」
と息子は気楽に言った。
声の調子からごまかしているわけでもなさそうなので、取りあえず胸をなでおろした。
「ナルコレプシーだから、やらかしてしまう。」
などと落ち込まずに対策を講じられたところが大したものかと思った。
母は、マイナス面が出ればすぐにうろたえてしまう。
どんどん頼もしくなっているように思った。
が、成績表を見るまでは正直安心はできなかった。
さすがに「可」ではあったが、クリアできていた。

息子は機嫌よく帰省してくるだろう。
そして、この内緒ブログはまたしばし休眠状態となる。

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じいは、1年半前に介護認定を受けた
最初、ばあから様子がおかしいと相談を受けてもどうしたらいいのかわからなかった。
町のそれらしきところに相談し、話はつながっていった。

じいの高血圧のかかりつけ医は近所で脳神経外科の看板を掲げている。
その先生もかなりのお歳で少し不安な感じはあった。
今では細々と常連の患者を診ているだけである。
ばあと私から話を聞き、認知症薬を処方し介護認定に必要な書類を書いてくれることになった。
じいには、
「物忘れを少なくする薬だよ。」
と言うと、抵抗せず飲んでくれるようになった。

じいの面談も問題なく進み、じいは要介護2、身体の痛みがあるばあは要支援1に認定された。
ここでも担当者は管轄によって変わった。
町の福祉関係の方と介護サービスの方は管轄が違うということがだんだんわかってきた。
ケアマネージャーさんがいる介護サービスセンターは、民間だから自分で選ぶのだ。
そんなことも知らなかった。
よくわからないから取りあえず、自宅のすぐそばにあるところに決めた。

それで、自宅に手すりを設置してもらい週に2回ディサービスに通うようになった。
そのうち1回はばあも一緒にである。
ばあも週1回は介護保険でディサービス利用することができた。
デイサービスもいくつかある施設から選ぶのだということ、介護サービスセンターとは経営者が違うということも知った。

最初にパンフレットを見せられ、古民家を利用した旅館のような通所施設に目が留まった。
ディサービスなどと言うと抵抗があるが、ここなら日帰り温泉といった感じで行くことができるのではないかと思われた。
じいは、好きな囲碁をしたりハーモニカを披露することもできると聞くとその気になり、機嫌よく通っていた。
リハビリはあまりやる気がなさそうだったが、何といってもお風呂に入れてもらえるのが助かった。
体格のいいじいをばあがお風呂に入れるのは、困難になっていた。
「食事もおいしいし、私もお風呂ではきれいに洗ってもらえるんだよ。」
とばあも気に入っていた。

そのまま1年ほどは、無事に過ごすことができていたのである。


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余命半年といっても、がんの症状は全く出ていない。
確かに、このところじいは、おそろしく食べるのにどんどん痩せていておかしいとは思っていた。
けれども常日頃検査嫌いで
「病院なんて行ったら俺はダメになるからな。」
といつも言っていた。
確かに、好きな物を好きなだけ食べ、見るからにメタボで、まともな検査結果が出るはずはない。
その結果で生活が制限されることに耐えられないと思っていたのだろうし、悪い病気が見つかることも恐れていたのだろう。
それで85歳まで来れたのである。
へんにがんが見つかってつらい治療を受けるよりはよほどよかったのではないか。
ただ、血縁者にがんが全くなかったので、がんを疑ったことはなかった。
じいが逝くとしたら、脳卒中か心臓関係だと思い込んでいた。

いずれにせよ、余命わずかということになったら、悪化するまでは家で過ごさせてやりたい。
社会福祉士さんとの話の方向は定まり、在宅で介護でできるよう明日にでもケアマネさんと相談することになった。
医師は、悪化した時は再入院させてくれると言い、今は退院してほしいという話には変わりなかった。

午後、消化器専門医から詳しい説明があった。
そこではさらに驚くべき話があった。
胆管の病巣に感染などが起これば、すぐにでも重篤な症状に陥る状態だということだった。
そうでなくとも、がんに圧迫され胆管が閉塞してしまえば黄疸が進み、死に至るということだった。
余命半年と言っても、早ければ1か月だと言われた。。。

なぜ、こんな重要な話を4日間も聞かせてもらえなかったのか?
担当医師は、瞬間的に忘れたのではなくずっとこの話を忘れていたのか?
認知症でわけがわからなくなった(と思われている)人間の余命など、どうでもいいことなのか?

息子は何も言わなかった。
「どう思う?」と言葉短かに私が問うと
息子は一言だけ
「俺は(最先端の)ここよりK病院が好きだ。」
と答えた。
K病院は息子がよく世話になった地域医療を担う素朴な感じの病院である。
一介の医学生として、将来この現場に足を踏み入れる者として、そんな言い方しかできなかったのだろう。

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そして、話はまた退院か転院してほしいということになり、医師は去って社会福祉士さんが現れた。

退院してどのように家で暮らすのか、あるいはどこかに転院または入所するのかなど、社会福祉士さんは頼りになる感じだった。
じいの身体的状態は、入院前よりかなり衰えていた。
以前のように家でばあが介護できるか心配であった。
ケアマネさんに連絡を取ってくれるとのことで、介護認定も3にしてもらうように勧められた。

その時、先ほどの担当医から連絡が入った。
言い忘れたことがあるから、話をしたいとのことだった。
そう言えば、私も聞き忘れたことがあると思った。
お腹のあたりに見えたという影の話は一言もなかったのである。

担当医はせかせかと戻ってきて、おもむろに
「実は・・・、胆管にがんが見つかりまして、末期です。」
と言った。
「そうはいっても年だし、それほど進まないでしょう?」
と思ったとたん
「余命半年です。」
と言われた。
皆、言葉を失った。

担当医はレントゲン画像を示しながら
「肝臓をはじめ、肺など全身に転移しています。何もないところは、脳くらいなものです。」
と言った。
脳くらいって、脳は萎縮して70%くらいしかないという話を聞いたばかりだ。
つまりじいの身体には、まともな場所はないということだった。

「手の施しようがありません。安らかな看取りを考えてあげてください。」
話は全く変わってしまった。
長く生きるという前提で話されていた今後の話は、ご破算になった。
医師はぺこぺこあやまり、
「昼過ぎに、消化器専門医から詳しい説明をさせていただきます。」
と言って、携帯電話で呼び出されそそくさと去っていった。
忙し過ぎるから専門以外のことは気が回らないのだろう。
医師の立場もわからなくもない。

でも、でもである。
患者の余命を忘れても転院の話だけは忘れないのだなと思った。
いや、それはこちらの見方であって、医師にとっては同じことなのだろう。
「手の施しようがない=治療の必要はない=転院か退院」なのだから。。。

そして、この病院にはじいのことを一人の人間としてトータルに看てくれる人は、だれもいないのだとわかった。

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入院して4日目に、担当医師のお話を聞けることになった。
運び込まれた時に医師からおおまかな話はあったようだが、私は毎日見舞っていてもお医者様にお目にかかることはほとんどなかった。
私とばあ、それから息子も同席した。
息子に第三者的な聞き方をしてもらいたいということと、もう一つは勉強のためだった。
これぞ、まさに医療の現場である。
息子は、12月末に帰省した時もケアマネさんとの懇談の席に同席している。

担当医の話があることは何日か前から言われていたが、病室の担当者が変わると、時間設定など二転三転した。
これは予定が変わったのではなく、担当者の勘違いであった。
この病院は情報がきちんと伝達されていないと感じた。
じいの状況の説明にしたってきちんと連携してくれていれば、何度も説明しなくてもすむはずであった。

じいは、最初脳卒中を疑われたので、担当医は脳神経専門の先生だった。
ベテランの見るからにきれそうな立派なお医者様で、ひっきりなしに携帯が鳴り、大変忙しそうであった。
じいの脳の画像を見せられ、脳は萎縮して70%ほどになってしまってかなり認知症が進んでいると言われた。
そして、じいの不調はおそらく認知症治療薬の副作用であること、薬をやめてみて好転していることなどが話された。
「(じいのかかりつけの)O先生の薬はきついっていう評判ですからね。同じような症状で搬送された方が何人かいます。
血圧の薬もそれほど必要はないです。
全てやめてもとくに問題はないようですから、主治医への報告にその旨書いておきます。」

ええっ?!という感じだった。
では、認知症治療薬とは何なのか?
かかりつけ医は、たまたま家の近くだったからであるが、認知症の認定医にもなっていて一応信頼してきた。
じいは認知症薬を飲み始めてから症状が落ち着いたように見えていた。
それに、血圧の薬だって何十年と飲んできた。
無頓着なじいが唯一気を配っていたことである。

でも、このところ認知症状は一気に進んでいる。
もう薬でどうこうというレベルではないのかもしれない。
病院でのじいの認知症状の悪化は薬をやめたせいではなく、環境のせいだということは容易に想像できた。
だから、薬をやめることに異存はなかった。


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