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■本   文  第5話  苦悩とやめる勇気 そして倒産へ
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月末が来るのが怖くなっていました。

元々債務超過していた会社でしたので

銀行のプロパー融資は無理ですし

各種制度資金も私が引き継ぐ以前に

借りつくされていました。

商行会に無理を頼んで

国民生活金融公庫に一緒にいってもらい

なんとか500万を借り入れました。

それも実の母親の保証条件で。

余談ですが

たしかこの融資制度は

無担保・無保証の資金のはずですが

不動産を所有している保証人を1名つける条件でないと

審査が通らないというので

国が税金でやっいる機関ですよ。

これが国民生活金融公庫の実態です。

本文に戻します。

毎月手形の決済金は800万以上ありましたので

500万の金では焼け石に水でした。

4ヶ月で3000万以上の発行手形がありましたし

仕事もキャパの30%ほどしかありませんでしたので

月末の資金繰りは大変なことでした。

そこで私は融通手形で時間を稼ごうと思いまた。

最初は、友人の会社に頼み

自社の手形を割り引いてもらって手当てをしました。

毎月、毎月、それでは友人も嫌になったのでしょう

関係が遠ざかってしまいました。当然です。

下請け会社にも頼みました。

わずかな仕事の発注しかしないで

手形の割り引きだけ頼むなんて虫の良い話です。

関係が悪化するのは当然でした。

ある人の紹介で、同じように

資金繰りに困っている人と出会いました。

同業社の社長です。

取引先の倒産でかなり資金ショートしているようでした。

意気投合し融通手形を発行しあうことになりました。

最初のうちはお互い同額の手形を切りあい、

お互いの責任で手形を落とす、

なんとか良い関係が保たれていましたが、

ある月末、悪夢のような電話が鳴りました。

銀行からで、この同業者が不渡りを出した連絡でした。

こうなると銀行なんて冷たいもので

割り引いた手形のいわゆる買取りをしろと

言っているのですが、

融通手形でまわしている会社に

そんな金があるわけありません。

ご存知だと思いますが、

銀行で手形を割り引きする場合、

予め保証人を定めた保証枠を設定し、

その保証枠の内で手形を割り引きます。

だから銀行は「保証人とも相談させていただく」

と半分脅しのような事も言ってきました。

なんとか保証人と話をつけ、

今回の不渡り分に関しては保証人から

借りて決済できました。

しかし毎月月末は地獄のような苦しい金策がまっているのです。

新事業の方は妻が社長に就任してからは

方針を一転させ、売り上げを落としても利幅の大きい

販売方法に切り替えていました。

確かに健全経営ではありますが

その分、器が小さくなってしまい

本業の方に一時流用できる、

まとまった現金が無いのが現実でした。

簡単に言えば1億の売り上げがあれば

支払い条件を手形などに変えれば

一時的にその1億が流用できるが

売り上げを3000万に落としてしまえば

それをしても三分の一しか流用できないと

いうことです。

利益より一時的な現金を追及するようになり

自分なりに限界を感じました。

毎日、毎日、金、金

嫌になりました。

死んだ方が楽だと本気で思うようになっていました。

もう余力も無く、月末の手形は決済できない。

会社を倒産させる決断をしました。

娘へ、息子へ、妻へ、債権者の皆様へと

遺書を書きました。

泣きながら、泣きながら、便箋に涙のしずくが

ポタ、ポタと落ちました。

ドアノブにタオルを引っ掛け、首に。

死のうと決断したその時、

胸ポケットにある携帯電話が振動したのです。

母親からの電話でした。

「今日から会社の旅行でグアムへ行くから留守を頼むよ」

お気楽な電話でした。

でも母親にしてみれば

わが子を助けた電話だったのです。

無論、母親はこの事を知るわけも無いのですが。

「わかった、気をつけて行ってこいよ」

電話を切った後は涙がとまりませんでした。

泣いて泣いて、そして生きることを選んだのでした。

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■本   文  第4話 ★好調な新事業と大事件に遭遇する本業★
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新事業の方も起動に乗り順調な経営状態。 

雑誌にも数多く取り上げられ忙しい毎日でした。

お金に困らず順調な会社経営とはとても楽しいものです。

お金を勘定している姿を想像してみてください。

多く数えていると指も疲れるし頭も疲れます。

でも苦労とは思わないはずです。

苦労どころか楽しい作業なはずです。

会社経営もまったく同じで、

儲かっている会社の社長業とはこの様な感覚なのです。

しかし逆に不調な会社の社長はどうでしょう。

朝から晩までお金の心配ばかりして

少し気が抜けるのは、月末の支払いが済み

「今月もなんとか乗りきったぞ」

とわずかな数日間だけ。また月末にむけて金策の毎日。

同じ社長でも天国と地獄です。

話しを本文に戻します。

ある日、本業の取引先である会社から電話があり、

内容は「来月から増産で発注数が50%増になるので

生産計画をたててくれ」との内容でした。

工場はフル稼働でしたので

24時間稼動体制を取ることにしました。

小さな町工場ですので、近隣住民への配慮から

残業は夜10時までとし夜勤は行わない暗黙の了解が

ありましたので、ご理解と協力をお願いして歩きました。

幸い近隣住民の多くが当社へ勤務しておりましたので

話しは簡単でした。

この近隣住民が多く勤務していることが

後々家庭崩壊していく大きな原因になるのですが

これについては後ほどか書きます。

なんとか増産にも対応し半年が過ぎた頃

突然取引先から呼び出され

「主力生産部門を中国にシフトする」

との事でした。

一時の増産は、海外へ仕事をもって行くための

貯め作りをさせられていたのです。

しかし当事の私は、

新事業が好調でしたので、

「なんとかなるさ」と簡単に考えてしまったのです。

第1号で書きましたが

先代から引き継いだ取引先とは取引をやめてしまっているので

その仕事が海外シフトしてしまうということはまったく仕事が

無くなってしまうということです。

当時の私は、

「皆で営業して少しでも新製品を受注しよう

新事業は好調だから、この時期に危機を脱しよう」

と陣頭指揮にたちました。

新事業のほうは社長を妻にまかせ

本業に専念することとなりました。

後で書きますが

この事が家庭崩壊への始まりの一歩だったのです。

ある日、ある社員が営業した会社から仕事の依頼の話が入りました。

その会社はベンチャー企業で、今考えれば怪しい話だったのですが

日本の技術を韓国の企業に提案する会社です。

簡単に言えば国内メーカーの機械に類似した機械を

韓国に売り込もうということです。

立ち上げにはお金がかかります。

しかし、その会社の熱意に引かれ

製造部門をすべて受注する条件で

お金を貸すことにしました。

すべての仕事が海外シフトしてしまって休業状態の

本業でお金を貸す余裕などありませんでしたが

手形なら現金を用意しなくていいし

最悪は新事業で穴埋めすればいいやと

安易な考えで約束手形を貸してしまったのです。

その会社は受け取った手形を銀行かノンバンクで

割り引いて現金にし、運転資金として使っていたようです。

手形を落とす期日になっても

お金が用意できないとの事だったので

ジャンプすることにしました。

★相手に再度同額の手形を渡し、割り引いて現金化した金を受け取り、当座へ

入れて手形を落とす★

これが手形ジャンプです。

これで済めばよかったのですが、気がつけば

数千万の手形を貸していました。

金を貸している人間っていうのは

貸した相手がつぶれるのが怖く、生かすために

再度金を貸してしまう。不思議な気持ちでした。

なんやかんや1年以上が過ぎたある日

ジャンプ手形を渡すと、そのままドロン。

夜逃げ倒産です。

とりあえず手形の金だけは妻に頼み、新事業の方から

借りる形で決済しました。

その後も貸した手形の決済が4ヶ月で数千万ものこっていましたが

妻には内緒にしていました。

新事業の社長を引き続き私がしていれば

金を本業に貸すことで解決した話しなんですが

男のプライドが許しませんでした。

それからが地獄のはじまりでした。

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■本   文  第3話 ★1年目で売上4億。急成長した新事業★
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ダイエット商品なんてどうやって売ればいいかな? 

なんて毎日考えていました。

本屋へ行き、何か参考になる本はと探していると

「成功する通販 大手通販会社○○はこうやって成功した」

なんて本が目に飛び込んできました。

インスピレーションでこれだ!と思いました。

その本によると、

1、 まずは身近のローカル新聞とかで広告を掲載。

2、 レスポンス率(反響)を量る。

3、 全国紙等で宣伝広告

この順でと書いてありました。

平成7年頃でしたので

今のようにインターネットはまだまだ普及されてなく

通販といえば雑誌や新聞広告やカタログ販売が当然な時代でした。

試しに広告してみようと地元ローカル新聞の片隅に小さく掲載してみました。

ビックリするほど反響がありませんでした。

5件の反響で購入者は3件です。

お願いした地元の広告代理店に

「あまり反響良くないね」とグチると

「社長そんな事ないですよ、こんな田舎のローカル新聞で5件のレスポンスがあ

ったなら、全国紙で広告すればすごい数売れますよ」って言うのです。

良く考えればこいつの言っていることも一理あると思い、

「全国紙、できれば女性なんとかっていう週刊誌に掲載すれば何万円かかる

の?」と聞いてみると

「1ページ100万くらいですよ」と。

ビックリしましたが発行部数から考えれば当然だな思いました。

「じゃあテストで掲載してみるから予約入れて」と言うと

「社長、内の会社では直で広告を持ち込むことはできませんよ。もっと大きな

広告代理店でないと」なんて返事でした。

そうかお前のところも地元ではテレビコマーシャルとかやっているのに全国対

応になるとそんなレベルなんだなと少し馬鹿にしたい気持ちになりました。

と言うか本業で儲かっていましたので天狗になっていたのです当事の私は。

「俺の方で広告代理店見つけるから帰っていいよ」と言うと

「内は二次代理店なので一次店に聞いて枠取れるか聞いて見ましょうか」

なんて言うから

「俺の仲間に大手広告代理店に勤めてる奴いるからいいよ」

と嘘を言って断りました。そんな仲間なんていないのに。

その女性週刊誌を見ながら

「どうやって広告代理店を見つけようか」と考えていたとき、

よく雑誌を見ると裏面の所に編集部の電話番号が書いてあるのに気

がつき悩みもせずそこに電話したのです。

「もしもしお尋ねした事があります。この女性週刊誌に私どもの商品

の広告を掲載したいのですがどのように手続きをすればいいのでしょうか」

と尋ねると

「広告は広告代理店を通してください」

との返事。

「すみませんが広告代理店に付き合いがまったく無いので紹介していただけな

いでしょうか」

と尋ねると

「後日ご連絡させていただきますので」

こちらの電話番号を教えて電話を切りました。

翌日、ある広告代理店から電話がきました。直接会って打ち合わせたいとの事

でしたので来社いただくよう頼みました。

3日後くらいに営業担当者二人が来社しました。

最初は2ページを使った記事的な広告でどうだとのすすめに

とんとん拍子で話がきまりました。250万費用がかかるようでした。

後日モデルをつかった撮影をするということで上京しました。

六本木の撮影スタジオでモデルを使っての撮影、レイアウトの打ち合わせなど

に立会い、その後料亭で接待を受け、取ってくれた一流ホテルに宿泊しました。

「夢のような世界だな」と田舎の町工場の社長が酔いしれた夜でした。

雑誌の発売当日、朝から受付電話が鳴りっぱなしでした。受付電話は2回線

で対応しましたがすごい反響でした。

うれしかった、「やったあ」と心の中で叫びました。

売れすぎて在庫が無くなってしまい、ほとんどのお客さんに

「人気商品でして2週間ほどお待ちいただきます」と対応しました。

9800円の商品ですから1000セットも用意しとけば余裕だろ、と思って

いましたがとんでもない結果でした。

3000セットも売れたのです。売り上げで約3000万円。

仕入れや広告費を抜いても1500万は利益です。

イタリアからの輸入商品でしたので緊急輸入を輸入元に頼むこととなりました。

うれしい悲鳴とはこのことです。

その後も順調に売れ続け、年間4億ほど売り上げたのです。