なっとうまきしかかたん

なっとうまきしかかたん

おとなになりました



ついに、ずっと会いたかった人に会えた。
そして、ずっとずっと聴きたかった歌声を聴けた。
 
オタクはこぞってはてブロやnoteなんかを使うが、
わたしは敢えて10年前の記録が残っている平成の香り漂うここに、この記憶を書き留めておこうと思う。


今まで画面越しでしか見たことがなかった彼の印象は、無口で、照れ屋で、儚くて、不安定。
だからこそ、その儚さから生み出される力強いメッセージが好きだった。いや、好きだ。


米村大滋郎。

元々ジャニーズJr.内バンドユニット「Question?」のギター&ボーカルだった彼は、わたしが認知した頃にはすでに退所してから4年ほどが経過し「SETUNACREWS(セツナクルーズ)」というバンドで活動していた。

当時、わたしはKis-My-Ft2とA.B.C-Zをメインに応援していた。
デビューからさほど年数が経っていない2組だったため、新規のわたしは知識を追いつかせようと、すでに現存する映像をできる限り全て観ようと必死になっていた頃だった。
つまり、ザ少年倶楽部の映像がメインになってくるのだが、映り込むバックバンドに見たことのない人がいた。それが彼だった。

少クラではご丁寧に名前テロップを表示してくれるため、彼の名前を認知するのは容易だった。
そして、すでに事務所から去っていることも同時に悟った。

きっかけは、一目惚れではなかったが何かが刺さる容姿だったと思う。
当時私が知るQuestion?にクールですこしやんちゃそうなルックスのメンバーはいなかったから、とても目を引いた。
しかも、ギタボというバンドの顔だったなんて。

当時から気性がオタクなので、一度気になったことはすぐ調べ尽くしてしまう。

少クラの映像はYouTubeにいくつも上がっていた。
シンプルに歌声も好きだったが、決定的だったのは「MY WAY」という曲に辿り着いた時だった。
作詞作曲に彼の名前がクレジットされているのに目が行った。
追いかけたくもないものを追いかけさせられるのもつらいでしょ?」
いつだって自分らしく、やりたくてやるべき事をやるだけだから」
(少クラでは披露していない2番なにも楽しくもないのに君はなんで笑うの?笑いたくもない 」
「否定しかしないやつ 簡単に裏切ってくやつ
君自身の中では 一番正しいよ でも君と僕は違うけど」この部分を知った時はさらに衝撃を受けた)

クールで無口で、少クラを見てもやる気があるとはとても思えず、スカした印象だった彼の心のうちが見えた気がした。
そして、確かにアイドルではなく、バンドマンとして表現するのが向いていた人なんだろうと妙に納得した。
(あとからいろんな情報を得て、ライブと少クラのテンションが全然違ったと知る)

同時に、作詞作曲ができるから、とかそんな簡単なものではなく、「すごい」人だとリスペクトの念を持つようになった。

それからというもの、わたしは彼の曲にのめり込んでいった。
少クラで披露されたMY WAYのみならず、多大な数の曲をライブで披露していたことがわかった。
それらの曲の歌詞を見るとどうしても音源が欲しくなり、お得意のサーチで着実に手に入れていった。

特に「もう少し」という曲の歌詞が大好きで、この曲の音源を探し出した時の感動は忘れない。
たぶん君はもう少し 君自身の事を信じなきゃ」
彼自身も、自分を奮い立たせるように書かれた詞にやさしいメロディ。
今もわたしにとって大切な曲の一つだ。

そして、退所後の彼の動向を追った。
今は消えてしまったけど、「ヨナサンマンソン日記」というブログがあり、最初から最新まで一気に読んだ。
ブログを立ち上げてすぐの頃になりすましを疑われた時以外、前の事務所の話なんか一切していなかった。
そんなところも大好きだった。
この時代になって気づくけど、どうしても元ジャニーズだったことに縋るしょうもないやつばかりなのも事実だから。

同時に「セツナクルーズ」に出会う。
バンドは変われど、彼の作る曲は何も変わっていなかった。やっぱり好きだなあと思った。
早くライブに行きたくて仕方なかったが、地方の中学生だったわたしになかなかその機会はやってこない。

そんなわたしにも、一度だけチャンスがあった。
2014年に大阪で開催された「ミナミホイール(通称ミナホ)」というライブハウス横断フェスのようなものだ。
(今この年の参加バンドを見返すとミセスとかいてびっくりする)

普通の対バンやワンマンとなると少しハードルが高かったが、これくらいの規模のイベントなら、とついに足を運ぶことを決めた。

だが、ちょうどセツナクルーズが出演する3日目だけ、台風が直撃して中止になってしまった。
この時は、ひどくショックを受けた。

それから1年もしないうちにバンドメンバーが2人抜け、2年もしないうちに解散してしまった。

バンドが解散してからも、一瞬新しいバンドが結成され曲が出たりしたが、知らないうちにそのバンドもなくなっていた。
ソロライブを何度かやっていたと記憶しているが、彼はいつのまにか表舞台から消えてしまい、誕生日くらいしかSNSにも現れなくなっていた。
このまま、一生彼の音楽をライブで浴びることはできないのだと諦めていた。


だから、彼が戻ってきた時は本当に嬉しかった。
その時、「いつか必ずライブで音楽を届ける」と宣言してくれた。


その「いつか」は、あの台風から約10年を経てついにやってきたのだ。




つづきます