ガラス絵画家 アトリエ便り

ガラス絵画家 アトリエ便り

ガラス絵画家,油彩画家の後藤友子の日記。作品写真もUPします。

ガラス絵画家 後藤友子のブログです。
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 日展を牛耳っている書道界の大ボスが、書道の各会派のボスたちに、「お前のところは5人、お前のところは8人」などと入選者数を割り振っていたことが明るみに出て、「不正発覚!」などと新聞で騒がれています。ふふふ。何をいまさら、と笑ってしまいますね。大ボスが審査の前に入選数を割り振るなどまだ可愛いもので、その裏にある入選謝礼のしきたりを暴かなければお話になりません。今回は、入選者が会派のボスに支払う謝礼が百万円だと騒がれていますが、私は「本当だろうか?」と疑ってかかています。


 なぜなら今から五十年も前、ラーメンが五十円だった時代に、すでに謝礼は百万円だったからです。家内の妹は五十年前、大東文化大学で青山杉雨という書道の大家に師事していました。で、在学中に日展に3回入選したのですが、一回につき百万円を青山杉雨に渡しています。家内の母親が妹の出世に全財産を注ぎ込んだために、当時、東京音楽大学に在学していた家内は仕送りが止まってしまい中途退学を余儀なくされたのでした。


 青山杉雨は、こうして毎年何人もの弟子から徴収した豊富な資金を自分が芸術院会員になるための運動資金として使い、、最後には文化勲章にまで上り詰めます。杉雨には、当然黒い噂が立ち、週刊誌のネタにもなっていますが、シラを切り通していましたね。また家内の母親と妹も、この謝礼金のことを家内には長年秘密にしていたのですが、後に私が知り合った青山杉雨の側近だったという俳人が、驚くべきことを明かしてくれたのでした。


 彼が言うには『日展入選の謝礼は一回百万円と決まってた。謝礼を用意できない女弟子は、身体で支払った。先生が忙しいときは、側近の我々が身体での支払いの「受け付け」を任された。』


 私がこの話を家内の母親と妹の前で切り出したとき、妹は「そんなことウソよねえ」と母親の援護を求めたのですが、母親は妹の言を否定はせず、ただニヤニヤと笑っていました。この妹は日展入選三回を看板にして地方の書壇で活躍しています。一方の家内は、自分の人生設計が狂ってしまったことによる心の傷がいまだに癒えていないのです。因縁、恐ろしや。(眞)


 戦後の思い出が語られるときに、必ずと言っていいほど出てくる「給食の脱脂粉乳のまずさ」ですがが、私は「けして不味いものではなかった」と異を唱えたいと思います。給食室での調理が下手だったために「だま」が出来たりして舌触りがひどく悪かったことはありましたがそれは脱脂粉乳の罪ではありません。これはおそらく軍隊用に開発されたものでしょうが、蛋白質とカルシウムの豊富な優れた食品でした。


 脱脂粉乳だけではなく、戦後暫くの間、アメリカ軍が放出した缶詰類がずいぶん家庭に配給されましたが、そのどれもが、戦う兵士たちの食料にふさわしい、しっかりと作られた食品だったことが忘れられません。アーミーカラーの無骨なモスグリーンの缶詰の数々。オイルサーディン、鱈のフレーク、プラムやピーナッツ、コンビーフ。みなずしりと重く、今の日本の缶詰類のように味を甘みでごまかし、量を汁でごまかしした「まがいもの」とは大違いです。


 n日本の食品も昭和30年ごろまでは戦前の製法を踏襲していたためか、しっかり出来たものが多かったのですが、高度成長が始まり流通が盛んになるにつれて、中味や味よりも見かけに重きが置かれるようになり、品質がどんどん低下していきました。その最たるものが野菜類でしょう。


 流通に適した傷みにくい品種が優先されて、本来持っている味や風味は失われてしまいました。マスコミなどでそれを言う人は殆んどいませんが、二、三年前、誰かが言っていました。「イタリアに住んでいたころは、日本にいた頃以上に四季折々の喜びを感じたものです。秋が来ると、色とりどりの果物がマーケットに並ぶ。裸で山積みされたそれは、色も形も日本の果物のように美しくは無い。けれど、どれもがみずみずしく味も素晴らしかった」と。(眞)


 私が最も愛読している川本三郎著『映画の昭和雑貨店』(全5冊)には、「ミシン」「お弁当」「ラーメン」「外食券食堂」「ストリップ」「男子厨房に入る」「消えた名所」「交番の巡査」などの項目で映画『プーサン』のシーンがこまやかに紹介されています。川本さんの本は、かように映画を愛するずファンの視点で書かれているところが好きなのですが、最近書店で手に取った本の中の氏のエッセイは、「異議あり!」と抗議したくなるような内容でした。 


 もっともそれは映画本ではなく『アンソロジー・お弁当』という大勢の著名人がお弁当の思い出を語っている共著本ではありますが。川本さんは戦後の小学校の給食のミルクを「給食でいちばん嫌いだったのは、我々の世代の誰もが言う、あの脱脂粉乳と言う出がらしの茶ならぬ出がらのミルクだった。アメリカが、戦争に負けて貧しくなった日本の子供たちに贈ってくれたものだが、何しろまずかった」と書いています。


 そう。川本さんの世代ばかりでなく、それより一昔前の私たちの世代も含めた多くの人々が、あの脱脂粉乳のミルクが不味かったという思い出話を語っており、もううんざりしていました。なにげなく立ち読みした本で久しぶりにこの「ミルク不味かったはなし」を眼にし、「またか…。しかも川本さんまで…」と、実に情けない気分のなってしまいました。 


 何を隠そう、この私は、あのミルクを一度として不味いとは思いませんでした。本物の牛乳の味を知らなかったからかも知れません。極度に貧しい生活をしていて私が飢えていることを知っている給食係の級友は、バケツの底に残ったどろりとしたあのミルクを、いつも私のカップに継ぎ足してくれました。私が栄養失調にもならず骨太の少年に育ったのは、みんなが異口同音に「まずいっ!」と顔をしかめたあのミルクのおかげだったといっても、過言ではありません。川本さんの文章を読んで「命の恩人」の悪口を言われたような、切ない気持ちになりましたね。この項続く。(眞)

 インタビュアーが「宮本武蔵こそ、真の英雄ですね」と言うと、文豪はそれを即座に否定し、表題のように、毎日艱難辛苦に耐えながら頑張っている現代のサラリーマンを称えたのでした。。五十年以上前にラジオで聞いたのですが、苦難の青春時代を耐え抜いて独自の巨大な文学の世界を築いた、吉川英治でなければ言えない言葉だと強く感銘を受けました。


 『プーサン』という映画のレストシーン。教師を首になり、怪しげな会社の臨時荷造り係という仕事にありついた伊藤雄之助が、人気の無い早朝の大通りを出勤のためにまっすぐに歩いていく。わき目も振らず、ひたすら真っ直ぐに。そのシルエットがだんだんと、消え入るように小さくなっていく。なんとも悲哀に満ちた胸を打つ映像なのですが、これは、見方によってはアラン・ラッドが演じた『シェーン』ではないか、伊藤雄之助は英雄としてえがかれているのではなか。ふとそんな気がして、青春時代に感銘を受けた吉川英治の言葉を思い出したのでした。


 いろいろと見所の多い『プーサン』でしたが、このラストシーンが極め付きですね。(眞)


 

 先日、瀬戸内寂聴さんが安住紳一郎の番組で表題の言葉を連発しながら、大好きだという牛肉料理をを食べ歩き、ステーキやら、すき焼きやら、ハンバーグやら、ためらいもなくぱくついていました。九十歳を超えているというのに元気一杯。とても明日死にそうには見えませんが、明日死ぬとかも知れないと思うと、悔いが残らぬように大好きなものを食べておきたいという気持ちはわかりますね。


 私も、外食でビールのお代わりなど「ちょっと贅沢だけどどうしようかな…」と迷ったときは、「ま、いいか。人間この歳になったらいつ死ぬかもしれないんだから」と、この言葉(思い)を金科玉条として自分を許してしまいます。


 「明日死ぬかもしれないから…」は、本気なのか?本気です!ただし、「かもしれない…」から、どこかのんきで楽しいんですね。もしも「明日死ぬ」が確かなことだったら、大好物の牛肉もビールもきっと喉を通らないでしょう。ある日突然、後ろから不意討ち。人生の終わりはこれに限ります。(眞)