7月12日 ラジオ本放送の日。
1925(大正14)年7月12日、東京放送局(現NHK)が、ラジオの本放送を開始した。
1日の放送時間は約5時間。
受信契約数は3,500軒。有料契約だった。
コーヒー1杯30円、うどん、そば1杯15円という時代に、契約料は月1円だった。
ラジオは映像に殺された!?
The Buggles
Video Killed The Radio Star〜ラジオスターの悲劇
1979年にリリースされて大ヒットしました。
当時、この曲があちらこちらから流れていました。
もちろんラジオからも。
♪君を無線で聴いてた 1952年のあの頃
寝そべりながら夢中でチューナーを回してた
もし僕が若かったなら君を聴きさ続けていた
新しい技術のマシンに書き換えられた
今の僕は君の苦悩がわかる
君の子供たちに会えた?何を話したの?
ビデオがラジオスターの出番を奪った
ビデオがラジオスターを駆逐した
映像がやってきて君の心を傷つけた
....以下歌詞が続く。
映像の普及によって、ラジオから流れていた曲、シンガーがすみっこに追いやられてしまったって曲なのね。
時代がどうだろうが、ボリシーなのよ。
売れるために、売るために....その戦略は大切。
でも、私が子供の頃からちゃんと売場に並んでいる商品はある。
それは、その商品を求めている人々がいるから。
いいものはずっと認められるってことね。
次々と売場に並ぶ商品。バラエティに富んでいるけれど、その中でずっと売場に並び続ける商品って数少ない。その数少ない商品こそが世の中に、ある意味認められている商品ってことじゃないの!?
次々に新しいものを出したって、求めたって、世の中に受け入れられないものは受け入れられないんじゃない?
それは、受け入れられない理由があるから。
Video Killed The Radio Star〜ラジオスターの悲劇。
ラジオはラジオで、今でも根強いリスナーがいらして、だから放送されている。
受け入れられている。
私の職場でもいつもラジオが流れている。
あきらかに広告でケッていうのもあるけれど(それはそれで情報を欲してる人々もいらっしゃるであろうし、スポンサーがいらっしゃらないと番組制作、放送が難しいからね)、ある範囲での情報を得ることができるし、曲が流れて、癒されたり刺激されたりしてる。
世の中に受け入れられないものを受け入れるの自由。
だけど受け入れられないものには、受け入れられない理由があるのかもしれない。
Video Killed The Radio Star〜ラジオスターの悲劇。
受け入れられないものをどこまで頑固に、見る目もないのに後々後悔するものを受け入れているのですか?
きちんとしたポリシーがあるのならばともかく。下心しかないのに。
そんなもの、本人以外認める人はいないんじゃない?
その認めさえ、他人に指摘されたならばゆらぐ安易なものでしかないのにね。
自分だけいい気になって、他人はせせら笑ってバカにしていても気づけない裸の王様!?
時代が変わろうと、世の中にみとめられるものは認められる。
映像がラジオを殺した?
ラジオはラジオでちゃんと根強いリスナーがいらっしゃいます。
映像こそ、ネットに殺されそうじゃないの!?
何があろうと、時代が変わろうとそれなりに良いものは良い。
認められるのです。残るのです。
だから本物を見極めて認める。
本物を見極める、見極めようとする見る目を持てていないとこの先生き残れないかも...
時代が変わっても、何が登場しても、残るものは残る。
それにはそのものの個性、良さがあるから。
悲劇でも何でもないのよ。
真新しいものにすぐに飛びついて、そのものの良さも古いものの良さも見極められずによくわからないのに、飛びついてから、あーだ、こーだって。
中高生時によく聴いていたラジオの深夜放送。様々な夢が広がった。
あの頃の夢、憧れ、果たせたかな?
果たしたものもあるけれど、果たせていないものもある。
まだまだ果たすチャンスはある。
温故知新....あの頃の純粋な夢、憧れ、果たして見ようか!?
過去を振り返るな....未来を見すえて進むのは大切。でも、過去は過去であの時...やっぱり自分は....って、過去から気づくこともあるからね。
どうか後々後悔せぬよう。
新しいばかりが良いではない。
温故知新も大切なのでは!?と、Video Killed The Radio Star〜ラジオスターの悲劇から、ラジオについて考えてみて思うのです。
ラジオは、本質的には悲劇を迎えてはいない。
時代は変わり、映像、ネットが普及しても、リスナーをきちんと確保している。
自分自身が良いものを見極められなくて悲劇を迎えるのは簡単。
そうなる前に、きちんと立ち止まって見極めないといけない。
大きな後悔を受け入れないためにもね。


